和気清麻呂

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わけの きよまろ


画題

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解説

前賢故実

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從三位行民部卿、造宮太夫を兼任、美作および備前国の国造。正直で意志が強い。高野天皇(称徳天皇)が道鏡を寵愛していた頃、太宰府神官阿曽麻呂が、神の託宣と称して「道鏡に譲位すれば、天下泰平になる。」と上奏した。帝は清麻呂を奉幣使として宇佐八幡宮へ行かせた。清麻呂が出発する前に、道鏡は厳しい態度で阿曽麻呂が上奏した内容を清麻呂に伝え、自分が即位できたら清麻呂を台輔に任命するが、そうでなければ命があぶない、と清麻呂を脅かした。清麻呂は宇佐八幡宮に到着し、徹夜で神前で神託を乞うために祈祷を続けていた。そして、都に戻った清麻呂は帝に「臣が直接神より詔を承った。神曰く、我が国は開闢して以来、皇統一系を保ち、敢えて帝位を望む者がいるだろうか、大逆無道だ。」と報告した。これを聞いて、帝は黙り込み、百官は顔色を失った。道鏡は恥ずかしくなり怒り出し、「すべては清麻呂の妄言」と帝に上奏して、流罪で清麻呂を大隅国へ流した。道鏡はさらに窃かに人を遣わして清麻呂を殺そうとしたが、刺客が雷雨に遭い失敗した。参議の藤原百川が、清麻呂の忠義と正直に感心して、清麻呂のために秘かに仕送りを続けていた。称徳天皇が崩御してから、道鏡は断罪にされた。光仁天皇は清麻呂を召還した。後に摂津太夫になった清麻呂は、帝のお許しを得て、台地を開削したり、堤を築いたりして大和川を直接大阪湾へ流させ、西方面の海運を開通させた。これにより民が大利を蒙った。清麻呂はもともと典故に詳しくて、民部省例二十巻を編纂したことがあり、ご褒美として桓武天皇より田地を賜った。延暦十八年薨去、享年六十七歳、正三位を贈られた。

(『前賢故実』)