名和長年

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なわ ながとし


画題

画像(Open)


解説

(分類:武者)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

南朝の忠臣、通称又太郎、初名を長高といふ、父を行高といひ、代々伯者国名和の地頭たり、人となり勇健にして射を善くした、元弘三年後醍醐天皇、密に源忠顕と共に隠岐の行宮を出でさせ給ひ伯耆に幸し長年に拠らせらる、長年即ち天皇を船上山に奉じ子弟を集めて之を守る、翌日佐々木清高同昌綱等来り攻めたが、長年奮戦して昌綱を斃し清高を破つたので、近国の将士風を望み靡き来つた、是に於て天皇は忠顕及び長年の子、義高を遺はして京都を恢復せしむ、尋で長年従四位に叙し左衛門尉に任じ伯耆守を兼ねた、既にして所在に官軍皆勝つとの報を得たので五月廿三日鸞輿伯耆より京都に還御あり長年父子之に従ふ、建武元年功を以て因幡伯耆の守護となり、尋で記録所寄人に補し、雑訴決断所に候し、将士恩賞の事に与る、二年足利尊氏叛し、新田義貞東征の事あるや、楠木正成と共に京都を留守し延元元年尊氏京都を侵すに及び、長年二千余人を以て勢多橋を扼したが、諸軍敗れ車駕延暦寺に幸すると聞き、兵を収めて京都に還り行官に祗候し、諸将と力を戮せて尊氏を討ち之を走らせ、駕を護り、尊氏再び至るに際し聖駕に従つて延暦寺に赴く、会々尊氏の兵東坂を犯す、長年脇屋義助等と撃つて之を退け、また新田義貞と尊氏を京都に攻めたが利あらず、遂に従弟信貞等と奮戦して戦死した、明治十六年八月従三位を追贈せられ、長年を祀つた名和神社は別格官幣社に列せられた。  (国史大辞典)

名和長年を画いた作

伊東紅雲筆  『船上山の奉迎』  東京府養正館国史壁画

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)