名古屋山三郎

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なごやさんざぶろう


画題

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解説

東洋画題綜覧

歌舞伎俳優、後に山左衛門といふ説もある、祖先は名古屋の郷士で父庄兵衛に至り秀吉に仕へて番祖となつたが男女十余人の子あり、山三郎はその七男であつた、子福者で活計不如意なため山三郎は京都建仁寺内西来院へ送られ喝食となつた、天正十八年蒲生氏郷、小田原攻の途中沿道堵をなす群衆の中に美貌の山三郎を認め庄兵衛に乞うて小姓とした、同年十一月氏康会津に赴くや山三郎亦従つた、偶々名主城攻の軍に従ふ、山三郎時に十五歳天性の美貌で白綾に赤裏付けた具足下に色々縅の鎧を着し猩々緋の陣羽織を被り手槍を提げて城内に駆け入り軍功比なかつたので、当時の俚謡に『槍師々々は多けれど名古屋山三郎は一の槍』と唄はれ、当時関白秀次の小姓不破万作と天下の美色と称された、氏郷の死後その遺財を得て再び京都に帰り風流漁色に日を暮らす中、出雲阿国と知るに及んで、阿国歌舞伎に猿楽を加味せしめ、その技を一新せしめ歌舞伎劇の端緒をなさしめた、慶長九年作州津山に到り城主森忠政に仕ふることゝなつたが津山城構築に際し、同僚井戸宇右衛門と争ひ右衛門のために殺さる。  (日本演劇史)

名古屋山三郎は出雲阿国との開係の外に、不破万作と対照され、これを歌舞伎劇に脚色されたものもある、『鞘当』がそれである。山三郎を描いた作も少くない。(出雲のお国参照)(出雲お国

岩佐又平筆  『名古屋と不破』   前川道平氏蔵

英一蝶筆   『名古屋と葛城』   笹川臨風氏蔵

山村耕花筆  『阿国と山左衛門』  文展第七回出品

鏑木清方筆  『歌舞伎の始め』   第九回七絃会出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)