北畠顕家

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きたばたけ あきいえ


画題

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解説

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

北畠顕家は大納言親房の長子、元弘元年参議に任じ左近衛中将と為る時に年十四、是春後醍醐帝藤原公宗の北山荘に行幸の砌、顕家蘭陵王を舞ひ叡感ありて物を賜ふ、三年顕家を陸奥守と為し東陲の鎮撫に当らしめた、即ち義良親王を奉じて居ること二月、奥羽平定した、建武元年功を以て従二位に叙し鎮守府を兼ねた、二年詔を奉じ、義良親王を奉じ新田義貞と共に足利尊氏を攻め大に之を破り尊氏をして遂に西に走らしめた、然るに尊氏の郎党四方に蜂起したので又奥羽に赴き鎮守府将軍となつたが、尊氏の兵頻りに顕家を攻めた、顕家結城宗広と共に霊山城に拠つて禦いだ、時に天皇、顕家をして上洛を命じ足利直義を討たしめ給ふ、詔書の詞辞甚だ懇篤、顕家之を衆に示す、衆皆感激す、茲に於て霊山を発し白川関に到るや管内の兵来り赴くもの幾十万人に及ぶ、顕家進んで宇都宮に入り、更に利根川に足利義詮を破り更に之を鎌倉に攻め、三年兵を率ゐて京都に赴く、尊氏の兵諸々に屯して之を拒む、顕家こゝに於て兵を青野原に駐めた、尊氏高師泰をして之を黒地川に擁し、更に土岐頼遠又顕家を攻めたので、顕家前後に敵を受け道を伊勢に取り吉野に赴かんとした、師泰之を追ふ、顕家の軍疲れて戦ふことが出来ず河内に入り、残兵を集めて男山に拠り屡々尊氏の軍を悩ましたが、遂に大軍に囲まれて勇戦安倍野に戦死した、時に年僅かに二十一であつた。  (大日本史―太平記)

顕家、後醍醐天皇の御前に蘭陵王を舞ふ図菊池容斎の『前賢故実』にある、なほ顕家を画いた作に左の諸点がある。

池上秀畝筆  『北畠顕家卿の像』      霊山神社蔵

磯田長秋筆  『陸奥霊山に拠る北畠顕家』  第六回帝展出品

荻生天泉筆  『霊山の北畠顕家』      昭和十四年二月個展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)