北条早雲

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ほうじょうそううん


画題

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解説

画題辞典

北条早雲。初め伊勢新九郎と稱し、長氏といふ、弱年にして京都に在り。應仁の乱以来天下大に乱る、長氏大志あり、陰に変を豪傑に結ぶ、一日衆に謂つて曰く、功名を成し富貴を得る今を捨てゝ何の時がある、顧ふに関八州地勢高隆士馬精強、古より武を用ふる地と稱す、而して永享已来定主なし、此に據りて天下を図るべきなりと、文明八年、荒木兵庫以下五人と東行し、駿河に抵り、今川義忠に拠る、會々義忠戦死し幼主氏親嗣立ず、家臣の内訌此時に生じ、足利政知、上杉定正等亦外より之を機として攻め至る、長氏間に處して巧に之を調停し、幼主を補翼す、功によりて俸禄三百口を食む、延徳中伊豆堀越御所足利政知其子茶々丸の弑する所となるや、長氏直に兵を伊豆に出し之を平定す、此歳六月髪を制り宗端と稱し、早雲庵と號す、明應四年謀計を以て大森實相の小田原城を陥れ、遂に移りて之に主となる、小田原北条の基礎此に立つ、之より屢々上杉顯定と戦ひ、又三浦道寸を攻め、相豆二州を手中に収め、武威東図に振ふに至る、永正十六年八月韮山に卒ず、歳八十八、」箱根早雲寺に葬る。早雲總明にして智略あり、嘗つて僧をして六鞱三略を講ぜしむ、その王将之☆豫攪英雄之心の句に至るや、早雲遮ぎりて日く。止めよ☆れ既に☆を得たりと、死に先たち法訓二十一条を作り将士に頒つ、亦一代の集雄といふべし。相模早雲寺に画像あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

北条早雲は通称伊勢新九郎といひ、長氏と呼ぶ、薙髪して早雲庵と号し、法名を早雲寺天嶽といふので世に北条早雲の称が行はれてゐる、若くして京都にあつたが、会々応仁の乱に際し、伊勢貞勝に従つて伊勢に赴き、尋で駿河に往き、今川義忠に拠つた、支明八年義忠戦死し、幼弱な氏親をして嗣に立てやうとし家臣に内訌あつて相戦ふに至る、即ち此機に乗じ、足利政知、上杉定正等各々兵を出して攻めたので、早雲機智を廻らして之を調停し、幼主氏親を擁立して事落着した、氏親其の功を多として月俸三百口を与へた、即ち城を八幡に築きこれに拠り、更に延徳中更に興国寺城を興して機を狙つた、延宝三年、将軍足利政知がその子茶々丸に弑せられたので、早雲は直ちに兵を出して伊豆に茶々丸を攻め之を討て国内を平定し、六月薙髪して宗端と号し、早雲庵といふ、明応四年、謀略を以て大森実頼を小田原城に攻めて之を陥り、自ら之に移つて小田原北条の基礎を定め、威を関東に振ひ、屡々上杉顕定と兵を交へ、また九年には三浦道寸を岡崎城に攻め、道寸敗れて住吉城に拠つたのを追撃して之を攻め、道寸更に逃れて新井城に入るや、又之を攻めて遂に住吉新井の両城を手に入れ、益々その威を揮つたが、十六年八月伊豆の韮山に死した。歳八十八、その遺骸は箱根早雲寺に葬つた、早雲聡明にして機略あり、死に先立つて法訓廿一条を草して将士に頒つたといふ。  (野史)

北条早雲の像はいま早雲寺に蔵せられてゐる、絹本淡彩、墨染の衣に掛子かけた法体の座像である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)