出雲の阿国
いずものおくに Izumo no Okuni ☆☆☆☆☆
総合
歌舞伎
歌舞伎の創始者といわれる人。伝記は諸説あり一定せず。 松江の鍛冶職の娘お国が出雲大社の巫女となり社殿修繕のため寄進集めに踊りの一座を組織し諸国を巡り、慶長八年(1603)京都に現れ「ややこ踊」「念仏踊」で人気をよんだ。さらに当時の風俗を写したかぶき踊りをはじめ、お国が男装し茶屋遊びするさまを狂言化して時好に投じたので、世人はこれを「お国かぶき」と称した。協力者は狂言師三九郎(三十郎)とも名古屋山三ともいわれる。お国かぶきは多くの追随者を出し、遊女かぶき(女かぶき)の全盛期を誘致し今日の歌舞伎の基礎を作った。なお、お国には二代、三代があったともいう。 (別表記)出雲お国、阿国、お国
画題
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(浮世絵)歌川国芳「阿国」[1]
解説
東洋画題綜覧
女歌舞伎の創始者で我が歌舞伎劇の元祖である、初め出雲大社の巫女で父を中村三右衛門と云ふ、生れて容色あり且つ神楽の舞に妙を得、京都に上り将軍足利義輝の営でこれを舞ひ将軍の賞する処となつて屡々召されたといふ、お国の技芸のさまは黒い絹の僧衣に真紅の唐織の長い紐ニ筋をもつて鉦を襟にかけ、それを打ちながら仏号を唱へ無常の世の有様を称名声で歌ひながら踊る、これを『やや子踊』と称へた即ち一種の念仏踊である、慶長の初年名古屋山三郎と知るに至り山三郎はお国の技芸に一新機軸を出さしめ、こゝに我が歌舞伎劇の端緒は開かれた、これよりお国の名愈々高く、或時は結城秀康に召されて之を演じ、慶長八年には宮廷に於ても女御近衛氏がお国歌舞伎を催されたことがあり、慶長十二年には江戸に下り勧進歌舞伎を催したこともある、山三郎の死後お国は老年に及んで生地の出雲の杵築に帰り尼となつて智月尼と号し、生家の傍らに草庵を結び法華経を読誦する外、連歌を楽しみ八十七歳を以て世を去つたといふ、演劇由来記には慶長十八年秋六十七歳で死すとある。 (日本演劇史) お国歌舞伎又は出雲お国を描いたものに左の諸作がある。 阿国歌舞伎図 (六曲一双)(重美) 池戸宗三郎氏蔵 無款阿国歌舞伎絵巻 三原繁吉氏蔵 阿国歌舞伎図画巻 (重美) 土屋楠熊氏蔵 国女歌舞伎絵詞 京都帝国大学蔵 山村耕花筆 『お国と山左衛門』 第七回文展出品 梥本武雄筆 『阿国』 第十回帝展出品 鏑木清方筆 『歌舞伎の始』 第九回七絃会出品 (『東洋画題綜覧』金井紫雲)