八幡太郎義家

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はちまんたろうよしいえ


画題

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解説

画題辞典

源義家は頼義の子なり。八幡社前に加冠して八幡太郎と称す。永承年中父頼義に従つて陸奥に下り、阿部貞任を討ち衣川関に之を破りて遂に之を獲。功を以て従五位に叙し出羽守に任ず。其の京に帰りて関白頼通の第に於て軍事を談ずるや、大江匡房座を隔てゝ之を聞き、好漢将才あるも兵法を知らずといひしとか。従者之を義家に告ぐ。義家感奮匡房に師事して兵法を學ぶといふ。永保三年陸奥守となり鎮守府将軍を兼ね清原家衡武衡を討つ。後三年の役是なり。此戦中に義家が過雁の俄に列を乱したるを見て伏兵あるを知りしは匡房に兵法を學びしが為めなりといふ。義家英略世を蓋ひ機智絶倫にして兼ねて和歌を克くす。勿来関を過ぎて「吹く風を勿来関」の歌ありしは有名なることなり。又衣川柵に阿部貞任を逐ひ、弓に矢を番へて「衣の館はほころびにけり」と詠みかけたるに、貞任顧みて「年を経し糸のみだれのくるしさに」と績けたることも人口に膾炙する所なり。又曾つて白河法皇の連夜夢魔に襲ばれける時、勅を蒙りて宿直し夜陰弓を鳴らしたるに、之より魔忽らに已みたりといふも名高き逸話なり。左馬権頭伊豫守となり正四位下に叙し嘉承元年剃髪、天仁元年卒す。年六十八。その英略その武勇その雅懐その威名後世の尊崇して神とする所なり。勿来関、衣川の連歌、白河院殿上の宿直、皆好画題として古来盛に画かるゝ所なり。勿来関に就きては同条参照すべし。

池田侯爵所蔵飛騨守惟久筆後三年役絵巻は一に八幡太郎絵詞として名品の聞え高し。又池田侯爵旧蔵に義家貞任あり岡田為恭の筆別府金七氏所蔵にあり。

(『画題辞典』斎藤隆三)