児島高徳

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こじまたかのり


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

児島高徳、備後三郎と称す、後醍醐天皇の時に出づ、天皇笠置に幸して北条氏を図り、王権の恢復を策せらるゝや、高徳兵を聚めて勧王を声名す、已にして、天皇隠岐に遷され玉ふに及び、之を途に奪わんとし一族を挙げて舟坂山に至る。会々車駕山陰に出たるを聞きて、間道を急行して美作に出づろに、駕既に過ぎて機を失す、高徳独り贏服して後を踵み間を求めて間を得ず、或夜窃に御駐輦の御館に忍び、庭前の桜樹を削り、書して曰く「天莫空勾践、時非無范蠡」と、天皇翌朝之を見て心窃に喜び給ふとなり。後軍を挙げて甚だ王事に勤む、高徳が桜樹を削り句を書せることは、我国民精忠の発揮にして又甚だ詩情あり。

近来に於て菊池容斎、続いて山名貫義松本楓湖等最も好んで之を画く、又渡辺崋山の作る所三河粕谷氏の所蔵にあり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

南北朝時代の忠臣、本姓は三宅氏、備後三郎と称し剃髪して志純と号した、範長の子、元弘年中後醍醐天皇の笠置に幸して北条氏を図るや、兵を聚めて天皇に従ふ、天皇因て錦旗を賜ふ、既にして行在守を失ひ車駕西遷す、高徳これを途に擁して駕を奪はんとし一族を率て舟坂山に到る、会々車駕転じて山陰道に向つたと聞き、間行して美作国杉坂に到れば、駕既に過ぎた後であつた、是に於て衆皆去る、高徳独り、天皇に見えて其の衷を奏上せんとし、復あとを慕ひ追ふこと数日に及ぶも其の機なく、夜、窃かに御館に入り、桜樹を斫り、書して曰く『天莫空勾践、時非無范蠡』と、天皇これを臠はせられ心窃に喜び給ふ、既にして天皇隠岐を脱して伯者国船上に幸するに及び、父、範長と共に其族を率ゐて到る、尋で北畠忠顕に属して六波羅を攻めたが利あらず、因つて荻野朝忠と共に錦旗を収めて高山城を守る、幾干もなく足利尊氏兵を篠村に挙げたが之に従ふを潔とせず、朝忠と共に六波羅を攻めて勝ち、後、新田義貞に属したが義貞戦死するに及び脇屋義助に従つて伊予に赴き義助の病歿により更に脇屋義治と共に上野に兵を起さんとした処、尊氏之を知つて伐たしむ、高徳義治と共に信濃に入り後剃髪したが、その終を詳にしない、曽て重野安繹これを架空の人物として抹殺論を唱ヘたが、論拠正鵠を欠き矢張実在の人物であつたとされ、贈位の恩典に浴してゐる。

その桜樹を斫つて詩を題する処は好箇の画題として、描かるゝ処少からず、菊池容斎、川辺御楯、山名貫義等にその作あり、又左の諸点がある。

渡辺崋山筆   京都染谷寛治氏蔵

平福穂庵筆   青森佐々木嘉太郎氏蔵

富岡鉄斎筆   新潟古殿氏旧蔵

宇喜多一蕙筆  神戸田村氏旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)