光明皇后

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こうみょうこうごう


画題

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解説

画題辞典

光明皇后、名は安宿媛(やすかひめ)、藤原不比等の第二女なり。聖武天皇儲貳の時妃となり、天平元年八月立て皇后となる。体貌殊麗光明あるに似たり、故に光明皇后という。孝謙天皇及皇太子を生む、然れども皇太子夭薨す。皇后天資慈仁敦く仏道を崇信す、先妣橘氏の為めに興福寺薦し西金堂を建て、又天皇に勧めて東大寺を造り、且つ諸国に国分寺を創め、又悲田施薬の二院を置きて天下の餓孕に恤む。東大寺成るに及び、后謂らく大仏大殿已に備足す天皇外に勗め我内に営む、勝功鉅徳加ふべからずと、やゝ誇る所あり。一夕閤裏声あり曰く、后誇る勿れ、妙燭宣明、浴室澣濯せば其功尚言うべからざるのみと。后即ち温室を建て千人の垢を去らんと立願し、貴賎をして浴を取らしむ。已に九百九十九人を終り、最後の一人に及び偏体疥癩臭いうべからず、后初め難色ありしも、遂に背を摺り瘡を吸う。然る後病人に言うて曰く、我れ瘡を吸う人に語る勿れと、時に病人大光明を放ち告げて曰く、后阿閎仏の垢を去る、慎みて語る勿れと。后驚きて之を仰げば、妙相端厳光輝複郁たり、后即ち其地に伽藍を構え阿閎寺と号す。宝字四年六月崩す、年六十。

明治三十年日本絵画協会第二回共進会に下村観山の図あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

光明皇后は聖武天皇の皇后、藤原不比等の第二女、幼にして聡慧、名は光明子、聖武帝儲弐の時納れて妃とせられた、天平元年皇后に冊立せらる、皇后体貌殊麗にして光明あるが如しとてかく名づけらると、孝謙帝及び皇太子を生ませ給うたが皇太子は夭薨せられた、六年正月先妣橘氏に興福寺に薦し西金堂を建て、釈迦十弟子等の像を安ず、荘麗妙絶を極む、又帝、国分寺東大寺を建立せらる、皆皇后の勧発によると、又夙に悲田施薬のニ院を置いて天下の餓恙を恤み療養に尽させ給ふ、東大寺成るの時、皇后謂へらく『大像大殿皆已に備足す、帝外に勖め我内に営む勝功鉅徳加ふ可らず』と、一夕閤裏の空中に声あつて曰く、后誇るとと莫れ、妙燭宣明、浴室浣濯せば其功尚言ふべからざるのみと、后怪しみ喜び乃て温室を建て貴賎をして浴を取らしめ又誓つて曰く、我親ら千人の垢を去らうと、君臣之を憚るも皇后更に意とし給はず九百九十九人を終り最後の一人で千人の垢を落すといふ際一人あり、適々体疥癩を患ひ、臭気室に満ちたが后更に意とし給はずその垢を去る、此の時病者の曰く、皇后無辺の悲済を行ひ給ふ、冀くは我が病を治する為め我が膿を吸ひ給へと、后やむなくこれを吸ひ給ひ慎みて人に語る勿れと、この時病者大光明を放ち、告げて曰く皇后阿閦仏の垢を去ると、皇后驚いて之を見れば、妙相端厳にして光輝赫☆(亦+火)たり、忽然として見えず、皇后驚き、其の地に伽藍を構へ阿閦寺と号した、宝字四年六月崩御。年六十。  (元亨釈書其他)

皇后の御事跡は古来歴史画としてよく描かる、近作に左の諸点がある。

下村観山筆           日本絵画協会出品

木村武山筆           第八回院展出品

増田牧山筆  『深夜縫衣図』  第十一回文展出品

吉村忠夫筆  『孝養』     第十三回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)