儀同三司母
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儀同三司母(ぎどうさんしのはは)
高階貴子。生年未詳~長徳2年(996)。壱二位、儀同三司(准大臣)藤原伊周の母。円融院に仕え高内侍と呼ばれたが、中関白道隆の室となり、伊周・一条院后定子らを生んだ。拾遺集以下に五首。
儀同三司は高階貴子(?-996)のこと。式部大輔従二位高階成忠の女。母は未詳。円融天皇の代の内侍で、高内侍と呼ばれ、従三位に叙された。藤原道隆の室となり、伊周・一条天皇の皇后定子等の母である。長徳2年10月、わが子伊周・隆家が流罪され、一家が没落するという悲運の裡に没した。享年未詳。『栄花物語』巻三「さまざまのよろこび」に、その道隆との結婚を物語って、「この中納言殿、よろづにたはれたまひけるなかに、人よりことにこヽろざしありておぼされければ、これをやがてきたのかたにおはしけるほどに」、子息・子女が多く生まれたといっている。『続古事談』第二に、その内侍時代円融天皇は「ソノ御心アリケレドモ、トゲ給ハデヤミニケリ」という。赦されて帰郷した後、伊周が准大臣の待遇を受けたので、儀三公(太政大臣・左大臣・右大臣)に同じということで、儀同三司と自ら称したので、伊周母の意でこのように呼ぶ。その漢詩文の才があったことは『栄花物語』『大鏡』の両書が述べ、『大鏡』は「女のあまりにざえかしこきはものあしき」という世人のいいぐさを引いて、彼女の悲運をもその賢才のゆえと論評する。『拾遺集』初出、新古今入集歌はこの一首のみ。
『百人一首―王朝和歌から中世和歌へ』 井上宗雄 笠間書院 2004年 より