僧正遍昭
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そうじょうへんじょう
画題
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解説
画題辞典
「へんじょう」(遍昭)を見るべし。
(『画題辞典』斎藤隆三)
東洋画題綜覧
平安朝の歌人、初の名は良峰宗貞といふ、後に僧正に叙せられ遍昭といふ、安世の子、仁明天皇に仕へ寵遇を受け、承和十二年従五位下に叙せられ左兵衛佐となり、尋で備前介となり左近衛少将を兼ね蔵人頭となつた。天皇の崩御に際し哀慕の念に堪へず出家し名を遍昭と改めた。台教を僧円仁に学び貞観年中、雲林院の住となり法務に任ず、天台の法務は此に始まるといふ。また元慶寺を創立して此処の座主となつた、寛平二年正月廿九日寂した年七十五、遍昭和歌に秀で、名歌少からず。
天津風雲のかよひ路ふきとぢよをとめの姿しばしとゞめむ
は小倉百人一首の一として洽く知られてゐる。遍昭を描いた作、藤原信実の「三十六歌仙」、川越東照官には岩佐又兵衛の作があり、又、近江春浦院なる、土佐光起の作が聞えてゐる。
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)