俵藤太秀郷

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たわらとうだひでさと


画題

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解説

東洋画題綜覧

本姓藤原、世に田原藤太と称する、村雄の子、驍勇にして籌略あり、延喜の末、罪によつて配流せられたが、後、下野掾、押領使となり、六位に叙せられた、天慶四年平将門叛し関東諸国を陥れ勢ひ甚だ旺である。秀郷、陽にこれに応じ其陣営に至り謁を請ふ。将門甚だ喜び折柄髪を梳つてゐたが結束するに及ばず急に帽を戴いて出迎へた、秀郷謂ふやう彼今大事を挙ぐるに際し挙措軽跳此の如し、これを誅する易々たるのみと、遂に平貞盛と力を協せて将門を攻め、之を破り将門箭に中つて馬から墜つるや秀郷進んで其首を斬る、功を以て特に従四位に陞り功田を賜うて子孫に伝へ後、下野武蔵両国守に任じ鎮守府将軍に拝す、歿年明かでない。  (大日本史)

俵藤太秀郷には、伝説として蜈蚣退治の物語がある、琵琶湖の竜神三上山の大蜈蚣の為めに苦しめられるので秀郷の武勇を聞きこれが退治を頼む、秀郷の豪勇之を退治することと『お伽草子』に載す、その蜈蚣退沿の条を引く

さるほどに藤太は約束の時を違へじと、重代の太刀を佩き、一生身を離たず持ちたりし重籐の弓の五人張ありけるに関弦かけて挟み十五束、三伏ある三年竹の大矢の鏃半過たるを三筋手挟んで勢多をさして急げけり、湖水の汀に打臨みて三上の山を眺むれば稲光すること頻なり、さればこそ件の化物来るにこそと守り居ける所に、暫く有つて雨風夥しくする程に比良の高嶺の方よりも松明二三千余り焚き上げて三上の動く如くに動揺して来る事あり、山を動かし谷を響かす音は、百千万の雷もかくやあらむ、恐ろしなんとは計りなし、されども藤太少しも騒がず、竜宮の敵といふはこれならむと思ひ定めて件の弓矢を差加へ、化物の近づくを待つ程に矢頃にもなりしかば飽くまで引き、眉間の真中と思しき所を射たりしに、その手応へ鉄の板などを射るやうに聞えて筈を返して立たざりければ、安からず思ひて又二の矢を取つて番ひ折れし矢壷を心掛け忘るゝ許り引絞りて射たりけるが、此の矢も又踊り返つて身には少しも立たざりけり、只三筋持つたる矢は射損じたり頼む所は只一筋、これを射損じては如何せむととり/゙\に思ひ廻らしつゝ此の度の鏃には唾を吐き掛け打番ひ南無八幡大菩薩と心中に祈念して又同じ矢壷と心掛け、よつぴいてひようと放ちければ、手応へしてはたと中ると覚えしより二三千見えつる松明一度にぱつと消え百千万の雷の音も鳴り止みけり、扨は化物は滅したること疑ひなしと思ひ、下部共に松明点させ化物をよく/\見れば紛ふべくもなき百足なり、二三千の松明と見えしは足にてやあるらむ、頭は牛鬼の如くにて其形大なること譬へむ方もなし、件の矢は眉間の只中を通つて喉にまで抜け通りけり、急所なれば理といひながら斯程の大きなる化物一筋通る矢に痛み滅びける弓勢の程こそゆかしけり。

これを画いた絵巻が二三ある。其中左の一巻が有名である。

伝土佐行長筆  『俵藤太草子』  徳川伯爵家蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)