中将姫

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ちゅうじょうひめ


画題

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解説

(分類:物語)

画題辞典

中将姫は右大臣横佩豊成の女にして、母は藤原百能なり、母長谷観音に祈り、天平十九年八月十八日生る、三歳母が亡ひ、九歳禁中に筝を奏して叡感を受く、継母照日之を妬む、十五歳の時、再び禁中に筝を奏して三位に叙せられ、中将の名を賜はるに及び、継母の嫉悪愈々甚だしく、人をして姫を山中に誘ひ殺さしめんとす、姫雲雀山に潜みて讒に免る、継母の死後、姫脱俗の念厚く、遂に当麻寺に入り尼となる、その翌年観世音、弥陀仏と共に来り、五色の蓮糸を授け、姫をして曼陀羅を織らしむという、天応元年三月、年二十九を以つて歿す、其逸話は童話として最も弘く伝へらるゝ所なり、

東京帝室博物館に筆者不明徳川初期の画あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

中将姫は右大臣横佩豊成の女、母は藤原百能、長谷観音に祈つて孕み、天平十九年八月十八日を以て生れた、明年誕辰の宴に、姫は筆を執り『初瀬寺救世の誓を現して女も法の国に迎へん』と書し、並居る人々を驚かしたと伝へらる、三歳にして母を亡ひ、九歳の時、禁中にて箏を奏し帝の御感を蒙つたので、継母照日の前、漸く姫を妬む色あり、十五歳の時また召されて宮中に箏を奏す、その妙始めに倍したので、愈々継母の憎しみを買ふこととなり、幾度か姫を誘ひ出し、人をして斬らしめやうとした、その人これを殺すに忍びず雲雀山に潜ましめた、父の豊成は姫の行衛が知れなくなつてから心を傷め人をして各地にその行衛を探さしめてゐる中、図らずも狩の帰途雲雀山に姫を探し得て伴ひ帰つた、そこで継母の照日前は之を聞き病と称し生家に帰り遂に死す、姫は命の全きを得たこと偏に仏力によるところと脱俗の心を生じ、宝亀元年遂に当麻寺に入り、善心尼と号して仏に仕へる身となつた、翌年七月十日観世音、阿弥陀仏と共に来り五色の蓮糸を作り姫をして曼荼羅を織らしめた、これが極楽絵の始めであると、天応元年三月十四日入寂した、年二十九。  (本朝烈女伝)

中将姫を画いた作。

筆者不明   『中将姫』      東京帝室博物館蔵

川崎小虎筆  『伝説中将姫』    第二回帝展出品

池田竜甫筆  『伝説当麻曼荼羅』  第十一回帝展出品

たいまでら「当麻寺」の項参照。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)