三度飛脚

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総合

三度飛脚のはじまりは、元和元年(1615)大坂定番の諸士がその家来を飛脚に仕立てて私信を国許の江戸へ運ばせたのがおこりとされている。その後三都の商人が下卆の名を借り、姿を模し帯刀して法被を着用し、その庇護を受けながらひそかに飛脚業を営んでいたのを寛文3年(1663)に幕府の許可を正式に受けて問屋場の伝馬継立を利用し、二の日に月三度の定便をひらいて「三度飛脚」の名前を確立させた。江戸・京・大坂の三都の意から「三都飛脚」とも呼ばれたが、天明2年(1782)幕府から初めて定飛脚問屋の株を公許されて江戸の飛脚商が大坂定飛脚問屋と公証した。それに対して大坂の飛脚商は江戸三度飛脚と称し、明治元年(1868)に江戸が東京となるまでその名が続いている。


『日本の飛脚便 Courier Covers in Japan』(日本フィラテリックセンター 1987年)