三井寺

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総合

謡曲の一つ。

作者:不明(世阿弥周辺の作か)

能柄:四番目物・狂女物・大小物

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あらすじ: わが子千満を人買いにさらわれた母が清水の観音に参ると、江州三井寺へ行けという夢のお告げを受ける。夢占いの男の判断も吉であったため近江へ向かう。三井寺ではちょうど八月十五日とあり住職たちが稚児を伴い月見をしている。この稚児こそわが子の千満でありこの寺で僧の弟子となっていたのであった。母は長らくの物思いから物狂いとなっていたが道を急いで三井寺に着く。狂女は愛児の行方を案ずる悲痛な胸のうちを訴え美しい鐘の音に仏縁を祈って鐘を撞きかける。これを寺僧にとがめられると狂女は古詩をひいて許しを求め月の興に乗じて鐘を撞く。また興奮が収まると静かに澄み渡る琵琶湖の夜景を心ゆくまで眺めて時をすごす。やがて稚児がわが子千満であると知った狂女は狂気も直ってともに郷里に帰り富貴の身となる。

三井寺について

正式名称を長等山園城寺といい天台寺門宗の総本山である。滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に位置する。 一般には西国三十三所第十四番の札所として三井寺の名で知られている。 天智・天武・持統の三人の天皇の産湯につかわれたとつたえる閼伽井とよぶ井戸があり「御井」または「三井」寺とよばれるようになったという。 

さらに近江八景の一つでもある「三井の晩鐘」でも有名である。


〈参考文献〉

『滋賀県百科事典』滋賀県百科事典刊行会、大和書房、1984年

『能・狂言事典』、1987年、編 西野春雄+羽田昶、平凡社 

『能楽ハンドブック改訂版』、2000年、監修 戸井田道三、三省堂

「三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)」http://www.shiga-miidera.or.jp/みいでら


画題

画像(Open)


解説

東洋画題綜覧

園城寺といふ、天台宗寺門派の本山、近江国大津市の西北にあつて長等山といふ、天武天皇二年大友与多麿(弘文帝の皇子)先考の遺願を継いで創建し、のち智証大師これを再興した、初は天台真言の二宗を奉じたが、のち天台宗のみとなつた、中世延暦寺と争ひ屡々火災破毀に遇つた、治承四年以仁王に与みして平氏の為めに伽藍は焼かれ、山僧も殺され、延元四年また足利新田の兵火に遭ふ、かく火災や兵火に罹つたこと前後十数回であつたが、徳川氏の代に至つて再興された。  (仏教辞林)

三井は又御井で、此の地の井戸の水で天智天武持統の三天皇が産湯を召されたのに起る、井戸は今の金堂水である、琵琶湖を一眸に収むる景勝の地であり、三井晩鐘は近江八景の一とて絵に画かるゝものも少くない。

小島気郎筆  『三井寺展望』  第十回帝展出品

謡曲に『三井寺』がある、元清の作で、我子の千満を失つた清見ケ関の狂女が遥々と三井寺までさまよひ行き、仏の加護によつて我子にめぐり逢ふ筋で、曲の中に湖水の景を写し鐘の故事など綴り込み興趣豊かな一番である。

「桂は実る三五の暮、名高き月にあこがれて、庭の木蔭に休らへば「実に実に今宵は三五夜中の新月の色、二千里の外の故人の心、水の面に照る月なみを数ふれば、秋も最中夜も半、所からさへおもしろや、「月の山、風ぞ時雨に鳰の海、波も粟津の森見えて、海ごしの幽に向ふ影なれど、月は真澄の鏡、山田矢走の渡舟の、夜は通ふ人なくとも、月の誘はゞおのづから、船もこがれ出づらん、舟人もこがれ出づらん。「おもしろの鐘の音やな、我故郷にては清見寺の鐘をこそ常は聞き馴れしに、是は又さす波や三井の古寺鐘はあれど、昔にかへる声は聞こえず、誠や此鐘は、秀郷とやらんの竜宮より、取りて帰りし鐘なれば、竜女が成仏の縁に任せて妾も鐘を撞くべきなり、「影はさながら霜夜にて、月にや鐘はさえぬらん。

此の曲のシテの狂女を描いたものに中村大三郎の作がある、(昭和十四年二回文展出品)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)