「白藤源太」

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江戸時代の門付芸である四ツ竹節に唄われた力士。
元禄十三年~元文二年(1700~37)。千葉県夷隅郡神置村出身。
「夷隅郡史」によれば、源太の本名は長嶋源太郎。農家に育ち、大男であったことから力士を目指して江戸に出るが、一時は頭角を現すものの、後に破門される。故郷の村に戻ってからは酒と喧嘩の日々を送るが、三七歳の時に村人に酒に酔わされて殺された上、簀巻にされて川に流されたとある。

この非業の死を遂げた白藤源太がその後四ツ竹節に唄われて流行した。さらに、1753年に井上金峨『小説白藤伝』や同年ころとみられる、作者不明の黒本『白藤源太』が書かれていることから、このころすでに白藤源太の話が江戸の町々に流布していたことは確かであると考えられる。

新内節「男作出世唄」もこのころだとみられるが、これは歌舞伎の「助六」に通じている。前半は『小説白藤伝』とほとんど同じであるが、後半は著しく異なり、「助六」の趣向にならって話は進んでいく。

歌舞伎に取り上げられたのは1753年の江戸中村座における『江戸花三升曾我』の二番目「花川戸身替の段」である。これは前年上演された、人形浄瑠璃『おしゅん伝兵衛 近頃河原の達引』の書き替え狂言である。ここに白藤源太を登場させたのは、これを演じる二世市川門之助が当時人気絶頂の力士小野川喜三郎に似ていたのを当て込んだためと言われており、この作品は大当たりであった。相撲界は黄金期を迎えつつあり、その人気が芝居へも及び、相撲とりを主人公とする狂言が仕組まれるようになってきた。この作以降、白藤源太はお俊伝兵衛と結び付けられるようになるのである。1804年に上演された『梅桜相生曾我』の二番目「四紅葉思恋深川」では、「花川戸身替の段」でわき役だった白藤源太も主役となっている。その後、「勝相撲浮名花触」や「其噂櫻色時」などがある。

歌舞伎以外に、山東京伝『白藤源太談』、山東京山『花角力白藤源太』、東里山人『魁浪花梅枝』、志満山人『花角力恋の百草」などの読み本・合巻がある。これらはいずれも白藤源太を花も実もある力士として美化していた。
これらや、歌舞伎の再演や書き替え狂言などから、「花川戸身替りの段」以降、江戸では、白藤源太といえば義侠の立役をさす名となり、義侠の力士としてもてはやされたことがわかる。

物乞いの間で唄われていた白藤源太の四ツ竹節は、歌舞伎の下座唄として、さまざまな世話狂言の裏長屋など貧しくわびしい場面の情景描写に今もよく用いられている。



<参考文献>
志村有弘・諏訪春雄『日本説話伝説大事典』勉誠出版 2006年
乾克己他『日本伝奇伝説大事典』角川出版 1986年
古井戸秀夫編『歌舞伎登場人物事典』白水社 2006年
『千葉県夷隅郡誌』臨川書店、1924年 鶴岡節雄校注『山東京伝の房総の力士白藤源太談』千秋社、1979年
高田衛『游戯三昧之筆ー馬琴・虚構の工学』(『文学 第8巻第1号』より)2007年