「殺生石伝説」
総合
玉藻前妖狐伝説。
妖狐玉藻について、大同小異は見られるが主なあらすじは以下のとおりである。
あらすじ
インドと中国において悪事を働いた狐が日本の那須に渡来したのち、上京して鳥羽天皇の命を狙ったが、正体を暴かれ退治される。
なお、殺された狐の魂が凝り固まって石と化すストーリーは『玉藻前物語』文明2年(1470年)にはまだなく、謡曲『殺生石』で初めて付加されたといわれている。
また、以下印象深い話を紹介する。
『臥雲日件録』(相国寺の僧瑞渓周鳳の日記)
享保二年(1453年)の二月二十五日、林光寺の住職修山と犬追物の話をする。鳥羽天皇の頃、天皇に寵愛された美しい女性がいた。彼女はインドや中国のこと良く知っていた。 そのうち天皇が病にかかられて、陰陽師に占わせたところ、玉藻前が天皇に災いを為しているのだと判明する。そこで調伏の祈祷を行うと玉藻前は狐の本性を現し、下野国那須野が原に移り住んだ。 これを退治しようとして、犬を放ち、上総介平広常が矢を射てこの狐を退治した。広常は後にこれを源頼朝に献上したが、この威霊のためか頼朝は天下の武家に君臨することになった。広常も、後に源に服従した。いまの世(室町時代中期頃)で犬追物という射戯はこのことから始まったとされる。
ここで、注目してもらいたいのは、このときの狐退治が犬追物の起源となったと書かれている点である。これは真偽は別としても珍しい記述であるといえる。
<謡曲 殺生石>
内容
鳥羽の院の寵愛を受けた、仏典・和漢の知識、詩歌管弦に至るまで才色兼備の美女がいて、彼女は玉藻前となづけられた。 ある日天皇が病気になり、それは玉藻が祟っているからだと見破られ、彼女は狐の本性あらわし那須野に逃げ、石に転ずる。石のなってからも毒気を放ち、近づくもののの命を奪ってきたが、玄翁の法力で改心する。
南北朝期の神明鏡所収の、天竺・唐土・日本の三国にわたって仏法と王法に敵対した妖狐玉藻前の話と、実在の人物で、晩年示現寺を開き、応年三年に七十一歳で没した禅僧玄翁(源翁)が殺生石を成仏させた話があいまって作られたとされる。
- 『謡曲百番』新日本古典文学大系57 西野春雄校 1998年 岩波書店
- 『怪異・きつね百物語』笹間良彦著 1998年 雄山閣出版
- 『狐の日本史 近世・近代篇』中村禎里著 2003年 日本エディタースクール出版部