16 後高野北院等御記
鎌倉時代
仁和寺御室第七世後高野御室である道法法親王(一一六六〜一二一四)による諸尊法に関する口伝書。本文中に挙げられた守護経法以下約三十の事相に関する項目には、「後高野御室御問答」、「後高野御室御筆」、「後高野御室御注」などの注が付され説明されている。後高野御室の記録には『後高野御室日記』『北院後高野両御室御注』(以上、仁和寺所蔵)、『御室相承記六・後高野御室』(『仁和寺史料』寺誌編一所収)などがある。
本書奥書には、正中二年(一三二五)、性心が「御所御本」を書写した旨が記されている。教覚上人性心(一二八七〜一三五七)は大和竹林院に住した学僧で、東寺観智院の杲宝や賢宝などにも授法している。
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【奥書】
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申出御所之御本敬旁 |
之了、 小 蒭性心 |
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(外題)

(3オ) (2ウ)

(奥書) (50ウ)
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17 後深草天皇宸翰消息
鎌倉時代
後深草天皇(一二四三〜一三〇四)の在位は一二四六年〜五九年。父後嵯峨天皇は後深草天皇よりも弟の亀山天皇を愛していたといわれ、そのためわずか在位一三年で亀山天皇に譲位することになり、それがのちの皇統分裂につながっていくことになった。
本文書は文意の明確でない部分もあるが、尻付が不審である、との文面からすると、僧侶の名簿に付されたさまざまな注記に対し、天皇自身の見解を述べたものである。天皇自身がそうした名簿を点検していたことを具体的に示す史料である。なお尻付とは、名前などに任官・叙位となった年齢や履歴を記した注記をいう。
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【釈文】
(追而書)
法眼実聡即部
已講乎、 然者三会
巡候歟、 如何、
僧事折帋加一見
返上候、 無殊子細候歟、
尻付聊不審候間、 令申候、
仁和寺宮者性仁法親王と
可侍事候歟、 但先例不存候、
範妄分明候、 公請曾者
凡僧任□時故、 此尻
付有無先例不審也、
謹言
□月九日 (花押)
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18 束帯天神像
室町時代
束帯姿の菅原道真を描いたもの。天神画像の遺品としては一四世紀のものが最も古いとされている。本図は笏をもち佩刀して上畳に座るが、眉や目をつり上げ、歯を剥き出しにして描いているところから、忿怒の相を表しているのだろう。こうした天神像は、中世には密教とともに摂関家の信仰を集めた。図上部の色紙形に区画された部分には、おそらく道真の和歌や詩が記されていたと思われるが、2、3字を除き、文字はほとんど剥落している。なお本図には明治四四年三月二五日付「朽木泰綱書状」と年月日未詳の「朽木村興聖寺書状」が付属しており、そこには、安土桃山時代、朽木貞綱(のち晴綱)室の飛鳥井雅綱息女が興聖寺に納めた旨等の伝来が記されている。
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19 広付法勘文
鎌倉時代
空海撰『秘密曼荼羅教付法伝』(『広付法伝』とも称す)、『真言付法伝』(『略付法伝』とも称す)は、真言密教相承の系譜として、大日如来―金剛薩 ―龍猛―龍智―金剛智―不空―恵果―弘法大師とする「付法八祖」と、これらに善無畏と一行禅師の二師が加えられた祖師伝が説明されている。
本書は、『広付法伝』を部分的に引用し、それに対する補説や解説が書き加えられた書である。弘法大師を除く「付法八祖」の各祖師について記されている。上巻には、大日如来―金剛薩 ―龍猛―龍智―金剛智が、下巻には不空―恵果についてが説明されている。
奥書によると、本書はもともと、弘安八年(一二八五)十月、醍醐寺松橋流を継承し山城八幡善法律寺に住した経舜が、高野山の中院流大楽院流の祖信日(?〜一三〇七)の「勘文」を書写した際に「私勘」を加えた書であるという。これを元亨四年(一三二四)、東寺観智院の杲宝(一三〇六〜六二)が書写したものである。
本書奥書(上下巻)の「杲宝」の文字が、何らかの文字の上に重ねて写されている。東寺観智院金剛蔵聖教第一七六箱第二〇号の同書下巻の奥書には、「求法沙門杲宝」の横に朱で「旧本ノ二字等妙ノ上ニ書ス」という書写者杲快の注が付されている。このことから、本書の奥書の「杲宝」の文字の下には、杲宝の旧名「等妙」の文字が重ねられていたことが判明する。東寺観智院伝来。
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【上巻・奥書】
弘安八季十月中旬於竹林院書之、 是則写 |
大楽之勘文兼載管見之私勘、 |
経舜 |
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書写了、 是偏為利益衆生仏法弘通矣、 |
求法沙門経杲宝 |
生季十九 |
同廿一日一交了、 |
【下巻・奥書】
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大法師経舜 |
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書写了、 是偏為利益衆生仏法弘通也、 |
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同日子時一交了、
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 (下巻・表紙) (表紙)
 (2オ) (1ウ)
 (下巻・奥書)
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20 御遺告釈疑抄 中末
室町時代
空海(七七四〜八三五)・謚号弘法大師が撰したとされている遺告の注釈書。空海による『御遺告』は「二十五箇条遺告」など全部で四種類あり、東寺か高野山を中心とする二つの立場から書かれている。
本書は、頼瑜(一二二六〜一三〇四)撰による「二十五箇条遺告」に対する問答形式の注釈書。『御遺告』の注釈書の中ではもっとも代表的なものであり、鎌倉時代の真言僧による御遺告観やその拡がりが表れている。
本書は、中巻と末巻であり、上巻は欠本となっている。奥書から、中巻は、文明十四年(一四八二)、根来寺大伝法院別院石曳南室坊で書写されたものと判明する。末巻は、弘長二年(一二六二)に頼瑜が撰したものを、正和五年(一三一六)に一部三巻(上中末巻)が権僧正によって書写され、文明十四年、中巻と同じく根来寺で慶祐法師が書写した旨が記されている。
なお、『真言宗全書』御遺告部註疏雑記には、延宝四年(一六七六)の刊本(高野山持明院所蔵)が所収されている。
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