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11 後七日御修法請僧交名                室町時代

 長禄四年(一四六〇)分の御修法請僧交名。宮中真言院は安元三年(一一七七)の大火で他の官衙とともに焼失したが、その後、再建されている。室町時代における宮中真言院の所在地については、かつての大内裏の中に依然として存在していたのかどうかは不明で今後の検討を待たねばならないが、貞和六年(一三五〇)の御修法請僧交名裏書に「参真言院、任例始行御修法、以中御門大宮菅二品亭為宿坊矣」(『東寺百合文書』ろ三)とあるから、依然としてかつての大内裏中に在った可能性が高い。本文書も『東寺百合文書』「ふ」八に同一文書があるが、『百合』にはある裏書が、本文書にはない。

 
12 金剛峯寺建立修行縁起               江戸時代

 高野山を中心とした弘法大師の伝記というべきもので、不思議の事蹟などが多く記述される。康保五年(九六八)の成立と伝え(下段右図)、そこから「康保伝」ともいわれる。著者は不明で、一つに「仁海」とする説もある。しかし仁和寺本には、康保五年には仁海は一八歳であるとして仁海説に疑問を呈する文章がある由だが、永観文庫本にも同様の奥書がある(下段左図)。

 『続群書類従』や『弘法大師伝全集』に翻刻されているが、『続群書類従』本にはある「堅師記」「宝塔供養願文」の部分が、本書にはない。東寺観智院金剛増聖教一一〇箱四二号の『金剛峯寺建立修行縁起』と、康保五年の奥書は同じであるが、その後の奥書は異なっている。
 字体から江戸時代の写しであろう。



(22オ)           (21ウ)


(7オ)            (6ウ)

(21オ)          (20ウ)

 
13  瑜祇塔図              南北朝時代

 瑜祇塔は、金亀の上に立つ多宝塔を指し、屋根の上に五本の相輪があるのが特徴である。亀に立つ塔のため「涌亀塔」(ゆぎとう)とも呼称される。
 平安時代の実運(一一〇五〜六〇)撰『瑜祇経秘決』には、塔の下の「金亀」が「世界建立」を表し、塔の上の五本の相輪(「五峯」)に布された梵字が、金剛界三七尊を表すと書かれている。同秘決には、本図と同様の図が描かれ「一切衆生自身成仏表示」するものであると説明されている。

 本図には、嘉禎四年(一二三八)五月に伝受した際、原図に記載されていた説明が写され、更に建武元年(一三三四)七月、阿闍梨堅信が伝授した旨が記されている。本図外箱には後世の文字で「舎利塔図」との銘がある。これは、亀が舎利塔を背負っている彫刻の唐招提寺蔵国宝「金亀舎利塔」などの舎利塔を踏まえたものと考えられる。しかし舎利塔には、本図のような五本の相輪はないため、瑜祇塔とした。亀の解釈については、異説が挙げられている。

【裏面切紙貼付・異筆】
大師御筆云、雙円性海常談四曼自性重如
月殿恒説三密自楽

【裏書】
師口云、 大師此塔重如月殿尺給ハリ密厳
華蔵此塔形也、 両部金蓮月形也、
口云、亀是器界
  (○印)  
蓋下二

二水ナリ可思之、

 
14  権僧正成賢書状           鎌倉時代

  成賢(一一六二〜一二三一)は文治元年(一一八五)十一月、伝法灌頂をうけ、建仁三年(一二〇三)三月、醍醐山二五代座主となり、また二七代座主にも復任している。勅によりたびたび秘法を修したといわれる。本文書は後七日御修法の勤行を承知し、香薬の手配などについて指示したものであるが、真言院阿闍梨殿の破損などにも触れられている。宛名は不明。本文書を収めた外箱内側には「建暦二年 権僧正成賢書 東寺武内蔵」とあり、建暦二年(一二一二)のものとするが、その根拠は不明である。ちなみに成賢は建暦元年、権僧正に任じられている。東寺伝来。

【釈文】 
 追申
  (虫損)
真言院阿闍梨殿殊破損雨露
凌云々、相構上許可被修理
候也、
後七日御修法勤行事、謹承了、
所令存知候也、期日近々之間、香薬
注文付廻注進之、早々可被送給也、
兼自余雑事等近来殊不法之由
承也、年始厳重之御願、尤可精好
之御沙汰候也、浄衣仏供燈油等、開白
以前必可沙汰出候、御下知可給也、
謹言
 正月五日

 権僧正成賢

 
15 深賢書状                   鎌倉時代

 深賢は『平家物語』に登場する猫間中納言清隆の孫、伯父は絵所隆能に当たる。弘長元年(一二六一)九月に没しているが、行年は不明。彼は東密三十六流の一つで地蔵院流の本所、醍醐寺地蔵院の開基で、地蔵院流の支流である深賢方の祖である。先に示した権僧正成賢(解説14)から伝法灌頂をうけている。
 本書状は横井清氏によって紹介されているものであるが、それによると、この書状は建長三年(一二五一)のものと推定されること、『平家物語』という書名を記したもっとも古い史料であること、六巻編成の原平家から十二巻本成立までの間に成立した、八巻編成の『平家物語』の存在を示唆していること、などが指摘されている。 『平家物語』研究の重要史料。

【釈文】
改年御吉慶等誠申籠
候了、 自他幸甚々々、
蒙仰候平家物語合
八帖 本六帖 献借候、 後書
後二帖
候事ハ散々なる様にて、
人の可御覧躰物にも不候歟、
雖然、随仰献覧之候、
古反古共見苦物候、御覧
後、早可返預候也、事々期
拝謁候、恐々謹言
   正月十三日   深賢

【参考】 普賢延命鈔           鎌倉時代

 藤井永観文庫所蔵『普賢延命鈔』(一巻)の紙背文書(計一二もしくは一三通)のひとつに、深賢書状が収められていた。本巻は、正元元年(一二五九)九月、親尊が抄出書写したものである。

(外題)                  (裏書・第一紙)  

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