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『園のはな』(天保11年正月刊 )

という本が出ている。横本で、いわゆる名鑑型の出版物である。
『守貞謾稿』巻之21にこの本の一部が紹介されている。図も書入れられており、祇園町の万屋安兵衛の部分のみが書写されている。しかし、国書総目録にも記載がない貴重な資料である。
内題に「祇園六街芸妓名譜(ぎおんしんち げいこなよせ)」とあり、凡例には
此書はふるくより全盛糸の音色あるは歌妓名鑑または最中の満月などいへる書つぎ/\に
   あり。されどわづか一紙に書つゞめたれば尽ことかたし
とあって、冊子体裁として名鑑を出した最初のものと宣言している。
また、内題の肩には「毎月改正」ともみえ、この時以降毎月発行しようという意気込みが感じられる。それだけでなく、その「追出目録」には、「下河原細見 真葛乃栄」、「祇園街同新地 園乃夜桜」、「西石垣細見 花乃追風」、「二条新地細見 川そひ柳」、「宮川細見 三よ世乃枕」、「北野細見 梅乃魁」などの書名が挙がっており、シリーズ化して発行していこうとしたものであることが伺われのでる。
これだけの資料が実際に出版されていたとしたら、天保期の京都の花街に関する情報はどれだけ豊かになっていたか、想像を絶するものがある。

「祇園御輿洗 練物姿 今鶴」

祇園御輿洗練物姿 今鶴
 掲出するのは、「はる川画」の落款がある細判合羽摺である。
退色しやすい絵の具の紫がまだ鮮やかに残っており、状態もよい。
・はる川は、「春川五七」と目される絵師で、最初江戸に住んでいたが、文化後半から京都に移り、祇園に居住して、天保2年(1831)に没したと伝えられている人物である。絵画的素養は、むしろ江戸で身につけたものと思われ、そのためか、顔の描写方法もそれまでの上方の絵師とはひと味ちがっている。
・板元は、山城屋佐兵衛と本屋吉兵衛の合板(共同出版)である。いずれも京都の板元であるが、山城屋は、「祇園蛸薬師東洞院東入」という住所までが判明している。
描かれている芸妓は、京井筒屋の今鶴という芸妓で、「宮木阿曽次郎」に扮している。いわばブロマイドとして練物に出る芸妓の姿絵を売り出したのである。
 本作品の制作年月は、文化11年5月である。

練物姿を描いた合羽摺

 合羽摺の作品の中に「祇園御輿はらひ ねり物姿」とのタイトルを持つ作品が数多くある。
 「祇園御輿洗(はらい)」とは、祇園祭の一連の行事の一つで、山鉾巡行に先だって、現在では7月10日に八坂神社の三基ある御輿の内、少将井(せいしょうい)の神輿一基を運び、鴨川の水で清める儀式をいい、また、本祭のあとの28日に再び鴨川の水で清めて、拝殿に戻るのも同じく御輿洗と呼ばれている。

合羽摺に描かれたもの

 合羽摺に描かれたジャンルでは、美人画と役者絵が多い。また、美人画で描かれる対象は、京都の場合、祇園の芸妓・舞妓ということになるのである。
 京都の一つの顔として「祇園」が大きな存在となって久しく、現在では、祇園を抜きにしては「京都らしさ」の多くを失ってしまう程になっている。江戸時代、遊郭としての島原が次第に衰えをみせ、祇園の役割が次第に大きなものとなっていったが、江戸時代の祇園の歴史については、実はあまり委しく調べられたことがない。しかし、合羽摺に描かれた芸妓たちは、祇園が一つの最盛期を迎える文化文政天保期のものであり、歴史の空白をビジュアルな資料として埋めるものである。そして、アート・リサーチセンターにも、それが9枚所蔵されている。

合羽摺版画

 合羽摺とは、版画の着色にあたって、着色したい部分を切抜いて穴をあけた渋紙を型紙としてあてがい、その上から刷毛で色を塗る技法である。渋紙は水をはじくから型紙を「合羽」と呼ぶ。馬連で擦りつけていないから色は乗り具合は柔らかく、見た目に非常に素朴なもので、かつ廉価に制作できたはずである。
 合羽摺の版画は、現在でも、大津絵の制作などに使われているポピュラーな物であり、長崎絵や双六・地図などにも事例がみられるが、錦絵を生んだ江戸では浮世絵の着色のためには使われなかったものらしい。後には、大阪でも制作されるようになる。役者絵や美人画、縁起物の風俗画、あるいは風景画も存在している。大阪では、同じ歌舞伎の舞台をあつかった作品が錦絵と合羽摺の両方で残っているものもある。

京都出版の浮世絵版画

 立命館大学アート・リサーチセンターには、3千枚を越える浮世絵版画があるが、上方絵、あるいはOSAKA PRINTSと呼ばれる大坂・京都で制作出版された浮世絵が500点以上もあり、コレクションの特徴の一つとなっている。なかでも、京都で発達した「合羽摺」作品は、約160点所蔵しており、現在知られているこのジャンルのコレクションとしては、世界最大規模である。