Z0688-1-012

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総合

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和漢百物語 小野川喜三郎

絵師:月岡芳年

翻刻

小野川は近世の力士之谷風と相對して

日下開山横綱を免許せらる曾(かつ)て其身

を召抱へゐへる太守の殿中に毎夜(よなよな)妖

怪ありとききて一夜君前近く宿直をする

に深更に及忽然として一個の大入道現

れ小野川をみて首を長ら(う)しからからと打

笑ふを取りおさへてよくよくみるに年経狸

の化けたるなりけり


大判錦絵

改印:丑九改 一八六五年(慶応元年九月)

版元:ツキヂ大金


概要

この絵は、天明~寛政の時代の人気力士であった小野川喜三郎が、お抱え主である久留米藩有馬家の屋敷に

夜な夜な妖怪が出没し、怪異事件が起こったので、退治して調べてみると年老いた狸の仕業であったという話を描いている。


また、この絵に登場している妖怪は「見越し入道」であると考えられる。



小野川喜三郎

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江戸時代中期の力士。五代横綱(俗説では四代ともいう)。宝暦十一年に(一七六一)に近江大津(滋賀県大津市)に生まれる。 生年については宝暦八年ともいわれ、本名を川村喜三郎という。大阪相撲の草摺(くさずり)岩之助のもとに十五歳で入門、のちに小野川才助の養子になり、相模川喜三郎と名乗る。幕下のときに小野川と改名する(改名は江戸に移ってからという説もあるが明らかではない)。安永八年(一七七九)に江戸に下り、芝愛宕山の場所で十日間の全勝をして認められ、天明二年(一七八二)、十月入幕する。その間、江戸相撲の人気をあつめていた秀の山(ひでのやま)、のちに伊達ヶ関森右衛門(だてがせきもりえもん)と名乗った、のちの谷風と対戦すること四度、入幕前の二月に谷風を破って入幕になったという。同四年三月に小結、同年十一月に関脇、寛政元年(一七八九)十一月、第十九代相撲之司(すもうのつかさ)、吉田追風(よしだおいかぜ-相撲の家元吉田司家の当主の世襲名)より谷風梶之助とともに横綱を免許された。翌二年三月以降からは番付面で大関の位にあった。同三年には、江戸城吹上苑(ふきあげえん)で十一代将軍家斉公の上覧相撲となり、谷風と対戦することになった。ところが立ち合いの気負けで戦わずして谷風に敗れている。また寛政三年に関脇、同七年に大関となった雷電為右衛門の登場は、谷風とともに小野川の好敵手として、江戸相撲の人気をあおることになった。世に寛政の大相撲とよばれるようになった名力士は、小野川、谷風、雷電の三力士をいった。のちに小野川は久留米藩主、有馬家のお抱え力士となり(一説に入幕前ともいう)、寛政九年十月、芝神明社の場所を最後に引退した。入幕以来の成績は、二十四場所、百四十四勝十三敗であった。身長五尺八寸(約一七五センチ)、体重三十数貫(約一二〇~一三〇キロ)といわれている。引退後は、大阪にて水茶屋「小野川」を営み、大変な人気と繁盛ぶりであったという。文化三年(一八〇六)三月二十日没。享年四十六歳。江戸、芝増上寺地徳院に葬られる。 このように『日本伝奇 伝説大事典』には記述があるが、引退後の水茶屋経営には諸説あり、『日本架空伝承人名事典』には水茶屋経営という通説は誤りであるとはっきりと書かれている。また、相撲の世界においては小野川と同じ時期に活躍した谷風梶乃助のほうが文献や、記述も多い傾向にあり、人気的にも谷風梶乃助のほうが上であったようである。


[1]



有馬家の妖怪騒動

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この絵の題材は小野川喜三郎がお抱え力士となっている久留米藩有馬家の妖怪騒動である。 この絵にでてくる妖怪は狸だが、有馬家は猫騒動でとても有名な家であり、「鍋島騒動」「岡崎騒動」と並んで日本三大猫騒動と言われている。 この狸の妖怪も小野川が退治したようであるが、猫の妖怪も同じく小野川が退治している。小野川の猫退治は江戸末期に「有馬の猫騒動」として多 くの芝居小屋や寄席で演じられた。他に小野川の登場している作品としては

小野川真実録 / 桃川如燕講演他,九皐館, 明26.6. - (講談百種 ; 第1冊)

古今名誉実録. 第1−4,6,7,9,10巻,春陽堂, 明26−27

実説有馬猫騒動記,日吉堂, 明22.12

高櫓力士旧猫伝 / 編輯人不詳,〓花堂, 明19.10

珍書刊行会叢書. 第9冊,珍書刊行会, 大正5

横綱力士小野川喜三郎 / 玉田玉秀斎講演他,岡本偉業館, 明35.5

等があげられる。ちなみにこの画像は『実説有馬猫騒動記』のものである。


まとめ

久留米有馬家というのは猫騒動で非常に有名な家であり、猫騒動の話というのは数多く残っており、講談等で多く演じられていて、非常に人気のあったものだということがうかがえる。しかし、狸の話になると、とたんに情報が減り、講談等でも演じられていたという情報は見つけることができなかった。なぜ芳年は猫ではなく小野川喜三郎と狸を描いたのか、非常に不可解な点である。この絵は「かつての主家」と有馬藩が描かれているため、猫騒動が起こったのとほぼ同じ時系列の話であることが考えられる。しかし、猫騒動の講談等の本に出てくる挿絵のほとんどの小野川の表情がこの絵のように余裕があるわけではない。多くの場合猫と向かい合い、必死の形相で猫と相対している。このように余裕のある絵は私が見る限りでは見つけることができなかった。その上、猫騒動の挿絵においては小野川は刀を手にしている絵が多く、その点でも猫騒動はこの絵の原本ではないということが推測できる。この絵の描かれた理由であるが、これは推測になるのであるが、芳年は小野川の勇猛さ、豪壮さを描きたかったのではないのだろうか。妖怪を目の前にしても全く動じず、悠々と煙草を吹かす。この絵は主人公である小野川喜三郎の勇敢さを最も強調して描いてあるのではないかと考えられる。相撲取はこの絵の時代と考えられる江戸時代において庶民のあこがれの存在であり、江戸においても「江戸の三男」といって、火消の頭、与力と並んで色男の象徴とされていました。特に谷風梶之助、小野川喜三郎、雷電為右衛門の三人が在籍したころが相撲人気の絶頂であり、その当時の横綱である小野川喜三郎の勇壮を絵にしたのではないかと考えられる。





参考文献・ホームページ

『原色浮世絵大百科事典』 大修館書店 

『日本架空伝承人名事典』 大隅和雄 [ほか] 編

『日本伝奇伝説大事典』 乾克己 [ほか] 編

『月岡芳年の世界』 悳俊彦編著

『日本説話伝説大事典』 志村有弘, 諏訪春雄編著

『日本奇談逸話伝説大辞典』

『日本古典文学大辞典』

『日本古典文学大辞典』

『角川古語辞典』

『ふるさとの伝説3 幽霊・怨霊』監修 伊藤清司 責任編集 富田登

『妖怪図鑑』文・京極夏彦 編・解説 多田克己

『妖怪事典』監修 岩井宏實(いわいひろみ)河出書房新社

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