鍋島騒動

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鍋島騒動

戦国時代、肥前国を支配した龍造寺氏は、天正十二年(一五八四)に龍造寺隆信が島原の戦いで敗死した後、その家臣の鍋島直茂に支配の実権を奪われ、それ以後、直茂-勝茂-光茂・・・と鍋島氏が代々の佐賀藩藩主の地位につくことになった。この政権の交代に取材し、鍋島氏に恨みを抱く龍造寺氏側の立場から、後世にまとめられた話が、いわゆる「鍋島の化け猫騒動」である。この怪談も、講談や芝居などで有名になり、いくつかのことなった話が世間に伝えられているのだが、怪描が藩主を襲い、家来に退治されるという点はいずれの話もほぼ同じである。ある話では、この物語は次のように語られている。

かつて、肥前を支配した龍造寺氏の直系の子孫に、龍造寺又一郎という若者がいた(別の話では又七郎ともいう)。又一郎は盲目であったが碁の名手だった。彼は、落ちぶれて、いまや鍋島氏の家臣となってしまった龍造寺家の再興をねらいながら、年老いた母のお政と二人で、佐賀の城下にひっそりと暮らしていた。又一郎は一匹の黒猫を飼っていた。この猫は、彼の父、龍造寺又八郎が、藩主のお供で長崎港の警備にあたっていた時に買い求めた天竺猫である。又八郎は、まだ又一郎が幼いうちに、長崎で不審な病死を遂げたが、「こま」と名づけられたこの子猫は龍造寺家で又一郎とともに育ち、残された二人に家族同様にかわいがられていた。さて、その頃、藩主の鍋島光茂は以後に凝り、毎日のように、家来相手に碁をうっていた。藩主の熱中ぶりに家来たちは閉口し、近習頭の小森半左衛門の思いつきで、龍造寺又一郎が相手を務めることになった。又一郎は城中に呼び出された。そして城内の一室で、二人きりの対戦が行われた。彼と光茂の勝負は夜遅くまで続き、決着はなかなかつかなかった。が、碁の腕は、又一郎の方が上であることが、しだいに明らかになり、追い詰められた光茂は不機嫌な表情をあらわにしはじめた。しかし、かつての領主の家であるという誇りをもつ又一郎は、決して藩主光茂に勝ちを譲ろうとはしなかった。又一郎の不敵な態度に光茂はつい逆上した。ふとしたきっかけで興奮した光茂は刀をつかみ、その場で又一郎を斬り殺してしまったのである。われにかえった光茂は、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。部屋にやってきた小森半左衛門は、又一郎の死体とそのかたわらでぼう然としている藩主に驚いた。半左衛門は、慌てて死体を庭の古井戸に隠し、このことを家来たちにかたく口どめをした。こうして、事件は闇に葬られた。それ以来、又一郎は龍造寺家に帰ってこなかった。お政は、息子が藩主の近くに参上することを喜んでいたのだが、その喜びは不安にかわっていった。連絡もなく、いつまでも帰らない又一郎を心配したお政は、小森半左衛門に消息を問い合わせたが、知らぬ存ぜぬの一点張りで、いっこうに要領を得なかった。お政は亡き夫の仏前にすわり、息子の無事を祈り続けた。そして愛猫のこまを抱いては、息子のことなどを話しかけ、寂しさと不安をまぎらわす毎日が続いた。不思議にも彼女の言葉がわかるのか、こまは、お政の声に耳を傾けるようすを見せることがあった。ある雨の夜、ふとどこかへ出かけていたこまが帰ってきて、何かを知らせるかのように鳴き騒いだ。目を覚ましたお政がみると、こまは血だらけになった又一郎の生首をくわえていた。お政は事のしだいを察した。息子は光茂に殺され、龍造寺家再興の望みは絶たれたのである。お政は、光茂を呪いながら胸に小刀を突き立てて自害した。こまは、このありさまをじっとながめていたが、やがてお政の身体から流れ出る血潮をなめだした。そして血をなめつくすと、目を異様に光らせ、生首をくわえて、降りしきる雨の中に姿を消した。それ以降、光茂は夜ごとに怪しい幻覚に悩まされ、やがて半狂乱になって病の床についた。奇妙なことに、光茂の愛妾(めかけ)お豊の方が近くに来ると、光茂の物狂いが酷くなるようだった。それに気づいた小森半左衛門は、お豊の方をそれとなく見張り、ある夜、ついにその正体を発見した。ひそかに庭に出たお豊の方は、手づかみで池の鯉にかぶりつき、そのまま平らげ、部屋に戻ると行燈の油をなめはじめたのである。障子にうつるその影は、大きな猫の姿をしていた。家来たちを率いた半左衛門は、屋形へ乱入した。そこには、目がらんらんと光り、口は耳まで裂け、すでにその正体をあらわした化け猫がいた。化け猫は身をひるがえして逃げようとしたが、半左衛門はこれを追いかけ、決死の活躍で、化け猫にとどめを刺した。この騒動によって非を悔いた光茂は又一郎の霊を手厚く弔い、龍造寺の一族も優遇した。そのため、死者の恨みも晴れ、やがて彼の病気も回復したという。

ある春の日、ここへ狩りにやってきた勝茂は、白石町秀津(ひでつ)にあった彼の別館で夜桜見物の宴を開いた。その宴がたけなわになったころ、一陣の突風が吹き、その場の明かりがすべて消えてしまった。そして、暗闇の中で恐ろしい悲鳴が上がり、あたりは大混乱におちいった。ふたたび灯がともされると、そこには、喉笛をかみ切られた侍や女中の死体が横たわっていた。それが化け猫の仕業だとわかり、勝茂の家来で千布本右衛門(ちぶもとえもん)という勇者が館の警戒にあたった。そして、館の庭の築山で怪描と戦い、やっとのことでこれを退治した。見ると、身の丈五尺(約一.五㍍)で尾が七つに分かれた大猫が、本右衛門の足もとに倒れていた。本右衛門は、この手柄によって、別館付近の土地を与えられた。ところが、その後、千布家では男子が生まれなくなり、それを化け猫の祟りと考えた、本右衛門から六代目の子孫久右衛門(きゅうえもん)が、別館の近くに祠をつくり、怪描を「猫大明神」と称して祀ったという。この猫大明神の祠は、秀津の秀林寺(しゅうりんじ)に残されている。この寺には、千布本右衛門を祀る祠もある。また、佐賀市北川副(きたがわぞえ)町木原の千布家には、七つの尾をもつ猫の姿を描いた猫大明神の掛け軸が伝えられている。千布家の子孫は、毎年旧暦十一月十五日の満月の夜に猫祭りを行い、猫の好きな生魚などを供えるという。

なお、ここに紹介した二つの話がまとめられ、、ひとつの化け猫の話として後世に伝えられたものもあるらしい。


(『ふるさとの伝説3 幽霊・怨霊』 1989年10月1日発行 監修 伊藤清司 責任編集 富田登)の本文より抜粋