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総合

東海道五十三対


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[翻刻]  御油  山本勘助草庵

宝飯郡小坂井の東牛久保村有 初此郷に住で射隴畝に耕しある時ハ別国に漂流して専軍学を鍛ふ 又天文地理を暁し韜略を諳じ胸中に八陣を畜 此牛久保村を蟄す 其頃甲州の大守武田大膳大夫晴信駕を枉てこれを顧る事三度に及び人を屏して籌を精好する事日々に密なり 日数僅に十五日の間に信州於て九城を陥す 是皆軍師の計策に拠也 或人伝 和朝の臥龍 明の劉基にも比せんや 其頃 名高き竹中穴山佐奈田など此山本勘助が門子とそ聞えし


絵師:一勇斎国芳

版元文字:伊場久板


【山本勘助について】

 この絵は山本勘助のもとに武田晴信が訪れる場面を描いている。御油は現在の愛知県豊川市に当たり、山本勘助出身の地とされている。


山本勘助のイメージは『甲陽軍鑑』によるところが多く、また勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。各地に残る家伝や伝承も、江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世のものである可能性が高い。

生誕地についても、『甲陽軍鑑』では三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)出身としているのに対し、江戸時代後期に成立した甲斐国に関する総合的な地誌である『甲斐国志』では、駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸と安の三男に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入ったとしている。また上杉氏の軍記物である『北越軍談』では愛知県豊田市寺部であるとしている。他にも勘助ゆかりの摩利支天像や勘助の墓のある武運山長谷寺の案内書では、勘助の生誕地は三河八名郡賀茂村(愛知県豊橋市賀茂町)としており、様々な説があるようである。



【東海道名所図会との比較】

・『東海道名所図会』より「山本勘助故居」

 寳飫郡小坂井の東、牛久保村にあり。今第跡田圃となる。牛久保の長谷寺に、勘助の守佛摩利支天の小像を安置す。 此人は甲州源氏武田の軍師なり。初は此郷に棲んで、射隴畝に耕し、ある時は列国に漂流して、専軍学を鍛ふ。又天文・地理を暁し、韜略を諳じ、胸中に八陣を蓄へて、天下の安危を餘所に観て、此牛久保を蟄す。其頃天下二十四将の其一人、甲州の大守武田大膳大夫晴信駕を枉げてこれを顧る事三たびに及び、人を屏して籌を精好する事日々に密なり。家臣遠山右馬助・板垣信賢等悦びず。晴信曰く、われに勘助あるは魚に水があるが如し、再び言を復す事なかれと宣ひ、既に出陣あつて、日数僅かに十五日の間に、信州に於て九城を陥す。これみな軍師の計策に拠るなり。咸人伝く、和朝の臥龍、明の劉基にも比せんや。其頃名高き竹中重治・穴山梅雪・眞田幸村など、此山本が門子とぞ聞えし。


この作品の文章は、ほぼ『東海道名所図会』の記述に由来すると思われる。しかしこの『東海道名所図会』の中に収められている「三州牛久保山本勘助故居」と題する図絵と本作品とは若干の異なりを見せている。雪の中、勘助の庵に武田信玄が訪れるといった基本的な背景は同じだが、本作品において勘助と並んで中心に描かれている勘助母の存在が、「三州牛久保山本勘助故居」では見られない。また本作品では描かれている様々な小道具なども、「三州牛久保山本勘助故居」では描かれていない。右奥に描かれている道具は「渾天儀」といい、現代でいうプラネタリウムのような役割を果たしていた道具である。これは翻刻の「天文地理を暁し」という部分に合わせて描かれていると思われる。


(参考) http://www.tsm.toyama.toyama.jp/curators/aroom/edo/ko-index.htm



またこの『東海道名所図会』より50年ほど後に刊行された『参河国名所図会』でも、「山本勘助晴幸故居」が紹介されている。

・『参河国名所図会』より「山本勘助晴幸故居」

 …晴幸斯くては上杉の滅亡遠からす思ひければ更に旅装して小田原を過て北条家の制度を窺ひ箱根を越 駿河国に至る 爰に当國府中の今川義元朝臣は今川四郎國氏六代の孫 上総介範政朝臣の曾孫 治部太夫氏親朝臣の三男にて母は中御門権大納言宣胤卿の息女なり 将軍連枝の貴族と云 海道第一の酋長なり 此家に仕へて年来の本意を遂げばやと推奨の縁を求むと雖も然るへき知己もなく終に行くともなしに三河國宝飯郡牛窪に至る時に牛窪の地頭牛窪弥六郎と云者あり 其身さる文限の者にはあらねども頗る人を知の量ありけれは晴幸が志を憐みこれを扶持しけり然るに 晴幸諸国を遍歴して古城跡を図し古戦場を見て勝敗の機を察知し 人数積兵粮割に精しき由 甲斐信濃国々までも聞こへければ郡内の小山田備中守これを武田勝千代丸に語る 勝千代丸心中大に悦ひ小山田を召具してひそかに晴幸が家を訪らわれ まず行軍治定の軍機を語らひさて主従の約をなし是より衣食を以って謀主となす 実に天文三年十二月にて勝千代丸十四歳晴幸四十二歳の時なり


これは1844年に著された「玉石雑誌」からの引用部分である。ここでの記述でも勘助のもとに信玄が訪れ主従の誓いをしたとし、また挿絵も『東海道名所図会』のものと類似しており、その影響がうかがえる。




【他作品の影響】

山本勘助の活躍を描いた歌舞伎・浄瑠璃作品のなかに近松門左衛門の人形浄瑠璃である『信州川中島合戦』とよばれる作品がある。

・『信州川中島合戦』第二段 勘助庵の場 

頻繁として三度顧みるは天下の謀とかや。武田信玄大僧従士馬廻りを麓に止め。原五郎昌俊一人御供にて。又踏分けくる木曾山陰。降積む雪に道絶て山は水晶を植えたるごとく。林は白金を粧ふに似て人目も共に埋もるゝ。爰にも住ば住居する。山本勘助晴幸が庵の門に着給う。


これは『信州川中島合戦』の第二段の勘助庵の場の引用である。上に挙げたように、信玄が雪の日に勘助の庵へ訪れる場面などからも、「信州川中島合戦」が本作品に影響を与えたことがわかる。この作品では、勘助の母・越路は信玄と勘助と取り成す役目などを果たす重要人物として登場する。この越路とよばれる人物は史実に基づいて描かれた人物でなく、あくまで『信州川中島合戦』の中に登場する架空の人物である。そのため本作品に描かれた勘助母の存在も、この『信州川中島合戦』の影響をうけて描かれたと考えられる。

『信州川中島合戦』では『通俗三国志』の影響もよく見られる。『通俗三国志』とは元禄五年に刊行された中国の『三国志演義』の和訳本のことである。近松は享保四年上演の『本朝三国志』でも『通俗三国志』を利用しており、内容については熟知していたと思われる。上に挙げた『信州川中島合戦』の本文の中で、「頻繁として三顧みるは天下の謀とかや」という一文がある。これは劉備が諸葛亮のもとに三度訪れて軍師に乞うたことを記した諸葛亮の著作『出師表』に基づく、杜甫の詩「蜀相」の「三顧頻煩天下計」よりの句である。また「山は水晶を植えたるごとく。林は白金を粧ふに似て」という部分も、「山ハ玉ヲ種タル如ク、林ハ銀ヲ粧フニ似タリ」という『通俗三国志』の劉備が雪の中、諸葛亮のもとを訪ねる場面「通俗三国志十五・玄徳風雪孔明ヲ訪ネル」の段からの引用であることがわかる。つまりこの場面は『三国志演義』の劉備が諸葛亮のもとに訪れる場面になぞらえて描かれた場面であるとわかる。この場面では、劉備=武田信玄、諸葛亮=山本勘助として描いているのである。このイメージは本作品でも用いられており、本文中において信玄が「三顧の礼」を行ったする記述もある。また本作品の文章が由来する『東海道名所図会』の中においても、「われに勘助あるは魚に水があるが如し」という「水魚の交わり」を示したような記述が存在する。このことからも、本作品は『信州川名島合戦』の影響をうけ、信玄と勘助それぞれに劉備と諸葛亮のイメージを着せ描かれていることがわかる。


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また山本勘助は「信州川中島合戦」を受けて作られた、『本朝廿四孝』という作品の中でも有名である。勘助はこの作品の三段目「筍堀り」の場面においての中心人物の一人として登場する。

・『本朝廿四孝』三段目あらすじ

山本勘助には横蔵と慈悲蔵の二人の遺児がいるが、老母はなぜか乱暴者の横蔵を可愛がって慈悲蔵には辛く当たり、兄のいうままに慈悲蔵の赤子を捨てさせ、兄の子・次郎吉を我が子として育てさせている。上杉景勝は自分とよく似た横蔵を身代わりにしようとするが、横蔵はこれを拒み、右目を抉って人相を変えると、前から武田信玄に仕えていたこと、自分の子として慈悲蔵夫婦に育てさせていたのは将軍の遺児である松寿君であると明かす。やがて横蔵は山本勘助と名乗り武田方に仕え、実は長尾の家来直江山城であった慈悲蔵と敵味方になる。 


この段の題名である「筍堀り」は、この一段に中国の二十四孝の孟宗の説話にちなんで、慈悲蔵が母のために雪中から筍を掘ろうする場面があることからつけられている。この段を描いた浮世絵はこの筍堀りの場面を描いていることが多く、本作品に描かれている風景とも似かよっている。またこの場面での横蔵(勘助)とその母を描いた国芳の作品も存在することから、国芳は本作品を描くにあたって、この『本朝廿四孝』からも影響をうけていたと考えられる。

また本作品でも登場する竹や雀などは、取り合わせのよいものとされており、図柄として、また一対となっているものの例えにも用いられていたようである。『本朝廿四孝』の三段目の中にも「これこの竹もその本は、竹に雀と離れぬ中」というセリフがあり、一対のものとされている。また家紋などの図案としても竹と雀は用いられており、上杉氏・長尾氏・伊達氏などがその紋を用いたようである。これも『本朝廿四孝』の中に「竹に雀は景勝の烏帽子の長尾末かけて」というようなセリフがある。



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【考察】

本作品は勘助が御油(三河牛窪)出身という伝説があることから描かれたのだろうと考えられる。この勘助の出身地については先程も述べたようにいくつかの説が存在するが、この作品では三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)出身とする『甲陽軍鑑』の説をとっていると思われる。

また山本勘助が武田信玄に仕える過程について、勘助の説話を庶民に広く流布させた『甲陽軍艦』では、築城に長けた人物を求めていた武田信玄が、武田家の重臣板垣信方の推挙によって取り立てたとしているのに対し、本作品では信玄が勘助のもとに直接訪れている場面を描いている。そのため本作品に描かれた場面は『甲陽軍鑑』のような史料によったものではなく、歌舞伎や講談などによったものだとわかる。

このように、この作品は先行する『信州川中島合戦』や『本朝廿四孝』といった人形浄瑠璃や歌舞伎作品の影響を受けて、『東海道名所図会』などによってある程度完成されたイメージに基づいて描かれたことがわかる。国芳は『甲陽軍鑑』などの史料に基づく山本勘助の姿を描いたのではなく、当時歌舞伎や講談などによって庶民の間で知られていた山本勘助のイメージを描いたのであろう。

また御油と勘助を結びつける作品は本作品以外にも存在する。東海道五十三次の各宿場町風景に関連のある役者を配したシリーズとして『役者見立東海道五十三駅』と呼ばれる作品がある。その中でも「御油」には三桝大五郎が演じる『本朝廿四孝』での勘助(横蔵)が描かれている。

このように当時の人々にとっても御油と勘助を結びつけることはそう困難なことではなく、割合イメージしやすい題材として、本作品でも「御油」に対し山本勘助が当てられたのではないだろうか。



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【参考文献】

・「東海道名所図会」秋里籬島 人物往来社 1967

・「参河国名所図絵 上巻」 愛知県郷土資料刊行会 1972・10

・「東海道名所記・東海道分間絵図」 叢書江戸文庫50巻 冨士昭雄校訂代表 国書刊行会 2002

・「日本古典全書23 近松半二集」 近松半二著 守随憲治校註 朝日新聞社 1949

・「近松浄瑠璃集 下」松崎仁・原道生・井口洋・大橋正叔校注 岩波書店 1995・12

・「浮世絵事典 下巻」吉田瑛二著 画文堂、1990・10

・「歌舞伎登場人物事典」古井戸秀夫編 白水社 2006・5

・「日本説話伝説大事典」志村有弘・諏訪春雄編著 勉誠出版 2006・6

・「日本伝奇伝説大事典」乾克己・小池正胤・志村有弘・高橋貢・鳥越文蔵編 角川書店  1986・9

・「日本架空伝承人名事典」大隅和雄[ほか]編 平凡社 2008・8   

・「歌舞伎名作事典」演劇出版社 1996・8

・「歌舞伎事典」服部幸雄・富田鉄之助・廣末保編 平凡社 2000・1

・「演劇百科大事典」早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編・河竹繁俊監修 平凡社 1990・3

・「国史大辞典」国史大辞典編集委員会編 吉川弘文間 昭和59年2月

・「東海道名所図会を読む」粕谷宏紀著 東京堂出版 平成9年4月

・「日本歴史地名大系23 愛知県の地名」平凡社 昭和56年3月

・「角川日本地名大辞典 23 愛知県」「角川日本地名大辞典」編集委員会・竹内理三編 角川書店 平成2年3月

【参考HP】

・富山市科学博物館 http://www.tsm.toyama.toyama.jp/index.shtml