近松巣林子

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ちかまつそうりんし


画題

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解説

東洋画題綜覧

近松巣林子、名は門左衛門、浄瑠璃狂言作者、承応二年生る、平称平馬、また信盛といひ、幼名彦四郎といふ、平安堂、不移山人の号もある。長門深川の人で、世々毛利氏に仕へ、幼時肥前唐津近松禅寺に入り出家したが、衆生を済度するもの出家にとゞまらずと京に上り、弟、岡本一抱によつて髪を蓄へ、一条家に仕へた、博く朝典を究め古学を修め、ここに初めて近松門左衛門と名乗つて伝奇小説に筆を染めた、その初めて、歌舞伎の作者となつたのは廿五歳の時で、京都の都万太夫座であつた、そして宇治加賀掾のため浄瑠璃作者となつたが、貞享二年大阪の筑後少掾(竹本義太夫)の為め『出世景清』を作り、これより大阪に移つて専ら竹本座義太夫の為め筆を執り其名世上に高くなつた、一代の名優坂田藤十郎と結んだのも其頃であつた、かくて一方では京の都万太夫座のため、一方では大阪の竹本座のため、交々筆を執つて名作を出した、所謂近松の三作といふ『国姓爺合戦』『雪女五枚羽子板』『曽我会稽山』の如き稀有の好評を博した作である。巣林子が演劇史上偉大な足跡を遺したのは、その絢爛を極めた作品ばかりでなく、自ら歌舞伎と操りとの媒介者となつて徳川時代の平民的演芸を大成せしめたことである、かくて一代の中一百余篇の浄瑠璃を公にし、享保九年正月十五日『関八州繋馬』を絶筆として同年十一月二十一日を以て歿した、時に年七十二、法名を阿耨院穆矣日一具足居士といふ、これ生前自ら命じたものといふ、その辞世に曰く

代々甲冑の家に生れながら武林を離れ三槐九卿につかへ、咫尺し奉りて寸爵なく、市井に漂て商売を知らず、隠に似て隠にあらず賢に似て賢ならず、物知りに似て何も知らず、世のまがひもの唐の大和のをしへある道は技能雑芸滑稽の類まで知らぬ事なげに口にまかせ筆に走らせ一生を囀り散らし、今はの際に云ふべく思ふべき真の一大事は一字半句もなき当惑心に、心の恥をおほひて、七十余りの光陰おもへばおぼつかなき我世経畢んぬ、もし辞世はと問ふ人あらば、それ辞世、去るほどにさてもその後にのこる桜の花しにほはば、享保九年中冬上旬、

入寂名阿耨院穆矣日一具足居士

不俟終焉期予自記春秋七十二歳印

残れとは思ふもおろか埋火のけぬま仇なる朽木かざして。

近松には此の辞世を自賛した肖像画世に伝はる、なほ吉川霊華、鏑木清方にその作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)