賢外集

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けんがいしゅう


総合

立役染川十郎兵衛聞覚し事をはなせしを東三八(狂言作者也)書置る一冊にして賢外といふは十郎兵衛法名なり。

初代坂田藤十郎の芸談が収録されている。

安永五(1776)年刊『役者論語』の中に収められている。

本文翻刻

一 坂田藤十郎はけいせい買の名人と、もてはやされたる稀人。ある夕ぎりの狂言に、ふじや伊左衛門役を勤る筈に極り、今度の狂言には上草履いるなれば、早々あつらへ然るべしといひわたしける。扨ざうり出来あがりたりとて見せければ、藤十郎見て、これは大き過たり。仕なをすべしと云付ければ、男申けるは、おまへのお足の寸を取誂へば、違ひ申さぬはづといふ。それにても大きなりとひたすらいひければ、買物方の者、これにいか程のちいさく致さんと尋ければ、一トまわりちいさくと申より、すぐさまあつらへ直し、惣稽古のせつ彼ざうりちいさきゆへ、指にはさみ出られたり。初日にも同じく指にはさみ出る。楽屋口に居たる役者名はわすれたり、若ざうりへお足が入りませぬかと、気を付ければ、其返答は仕ながら、其儘にて舞臺へ出たり。ある人此事を不思議におもひ尋ければ、藤十郎いはく、此度の草履は揚屋の庭にてぬぐ事あり。舞臺にぬぎ捨たる時、ざうり大きければ、諸見物藤十郎はさてもきつい鍬足なりと見出されては、重てけいせい買の狂言はならざりしと、答られし。すべてか様な事までも気を付、狂言仕ける名人の心得は格別の事なり。

一 坂田藤十郎曰、歌舞妓役者は何役をつとめ候とも、正真をうつす心がけより外他なし。しかれども乞食の役めをつとめ候はゞ、顔のつくり着物等にいたる迄、大概に致し、正真のごとくにならざるやうにすべし。此一役ばかりは常の心得と違ふなり。其ゆへいかんとあらば、歌舞妓芝居はなぐさみに見物するものなれば、随分物毎花美にありたし。乞食の正真は、形までよろしからざるものなれば、眼にふれておもしろからず、慰にはならぬものなり。よつてかくは心得べしと常/\申されし。

一 坂田藤十郎、祇園町ある料理茶やのくはしやに恋をしかけ、やがて首尾せんと思ふに、件の妻女、おくの小座敷へ伴ひ、入口の灯をふき消たり。時に藤十郎すぐさま逃帰りけり。其翌朝右の茶やへ行、妻に打向ひ、御影にて替り狂言の稽古を仕たり。此度の狂言は、密夫の仕内なり、つゐに左様の不義を致たる事なければ、甚此仕内にこまり、此間太夫元よりはやく初日を出し申度と、再三せがまれ、日夜此事をあぐみ、密夫の稽古を男に出会もらひては、其情うつらねば、ひとつも稽古にならず。我願ひ成就致けいこ仕たり。今朝太夫元へ、初日明後日御出し申遣したりと一礼申されし。一座の人々扨々名人と呼るゝ人の心がけは、凡慮の外なる事と手を打ぬ。

語釈

染川十郎兵衛

元禄末~宝永期の立役。