豊太閤

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ほうたいこう


画題

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解説

画題辞典

豊大閤は豊臣秀吉が事なり、秀吉、尾張中村の産、父母詳かならざれども、木下彌右衛門の子にして、後織田氏の同朋筑阿彌に養はるといふこと信すべきが如し、幼名日吉丸、通稱藤吉、初め木下氏を稱し後羽柴と改め、晩年更に豊臣と稱す、十六歳の時、遠江に赴き松下嘉兵衛が僕となり、幾くもなくして去つて織田信長に属す、軍に臨みて屢々武功を建て、頻りに登用せらる。天正十年信長明智光秀に弑せらるゝ時、己に従五位下筑前守たり、命を奉じて中国に在り、高松城攻圍中。本能寺の変を聞きて直に京都に還リ明智光秀を山崎に討つて之を破り、清洲に赴き、信長の嫡孫秀信を以て主となす、己にして織田氏の宿将、秀吉の武勲を妬むものあり、秀吉是等に對峙し、天十一年柴田勝家等を賤ケ岳に破り、織田信孝を岐阜に討じ、成望益々盛に大阪城に築きて遂に近畿を服す、尋いて長久手小牧の兩役を経て、徳川家康と和し、紀伊に根來寺を屠り、四国に長曾我部を討じ、己に天下の大牛をその手中に収め、官亦累りに進みて、天正十三年には関白となり従一位に叙せらる、翌年太政大臣に任じ、尋いで九州を征して島津氏を服し、又東国に北条氏を討ちて之を亡ぼし、遂に海内を統一す、邸第を聚落に起して豪奢を極め、或は北野に大茶會を催ふして天下の風流を尽くし、醍醐に大規模の花見を企て雅懐を遣る、若し夫れ晩年に於ける兩度の朝鮮征伐に於ては、その究竟の目的は大明図にありしもの、雄図壮擧皇国の第一人と推すべきものなり、文禄三年八月十八日歳六十二を以て伏見桃山城に薨ず、京都阿弥陀峯に葬る、豊国大明神とは其祠に勅して命ぜられたる神琥なり、其肖像は高野山蓮華定院に伝ふるもの最も真を得たりと稱せらる、その他京都高臺寺、伊逹伯爵、木下子爵家等にも各一本を蔵す、小野通女の筆といふもの京都金戒光明寺にあり、狩野山楽筆といふもの川崎千虎氏旧蔵にあり、近年にては第一回文展に於ける安田靭彦が作、第五回院展に於ける下村観山が作知らる。

(『画題辞典』斎藤隆三)