藤原藤房
ふじわらの ふじふさ
画題
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解説
前賢故実
(『前賢故実』)
東洋画題綜覧
藤原藤房、幼名は惟房、万里小路大納言宣房の長子、後醍醐天皇に仕へて左大弁に任じ参議を経て中納言に進み、左兵衛督を兼ね、検非違使別当となり、正二位に至つた、元弘元年北条高時兵を遣はして京都を犯さんとするや、護良親王、夜人を馳せて変を奏上す、時に藤房は弟季房藤原師賢と宿直してゐたが、急に天皇及び神器を奉じて遁れ三条河原に到り護良親王以下数人に追つき、天皇は輿に召されて奈良に赴き給ひ更に笠置に入らせ給うた、藤房等皆姿をやつして之に従ふ、賊は火を行宮に放ち攻めて来たので、藤房は師賢、源具行等と共に天皇を扶け参らせ、有王山に至つたが遂に賊兵に捕へられ常陸の国に流された、高時誅に伏するに及んで再び京に帰り、天皇に仕へた、天皇、藤原実世に勅して行賞のことに与らしめたが、将士功を争ひ実世これを決し兼ねたので、藤房をして之に当らしめ給うたが、天皇内勅を下し恩賜する処多く為めに行賞当を失する所多し、藤房諌むべからざるを知つて病と称して朝せず、建武元年出雲守塩冶高貞千里馬を献じた、天皇大に喜ばせ給ひ天馬と称して馬寮に養はしめ、一日馬場殿に御し、内大臣藤原公賢に天馬出現のことを問はせ給うた、公賢故事を引いて瑞祥と讃し、群臣亦慶賀の意を表してゐると、遅れて藤房此に到り支那の故事を引いて不祥となし、賞罰当を失し、遊宴を事とし給うを諌め奉つたが聴かれず、こゝに於て藤房、臣の道我に於で尽し得たりとして宮中を逃れ北山の岩倉に入つて遁世した。天皇大に驚かせ給ひ、宣房に命じ岩倉に赴かせたが、
住み捨つる山をうき世の人とはゞあらしや庭の松にこたへむ
と一首を遣しその行く所を知らず。 (大日本史、太平記)
藤房卿の波瀾重畳の生涯は、絵に画いても変化があり、よく筆にされるが、その中でも左衛門佐の局との物語が、太平記に美しく書かれてゐる。
中納言藤房をば同国に流して、小田民部大輔にぞ預けられける、左遷遠流の悲は何れ劣らぬ涙なれども、殊に此卿の心中推量るも猶哀なり、近ごろ中宮の御方に左衛門佐の局とて、容色世に勝れたる女房御座しけり。去元亨の秋の比かとよ主上北山殿に行幸成りて御賀の舞のありける時、堂下の立部の袖を翻し、梨園の弟子曲を奏せしむ、繁絃急管何れも金玉の声玲瓏たり、此女房琵琶の役に召され、青海波を弾ぜしに、間関たる鴬の語は花下に滑なり、幽咽せる泉の流は水の底に灘めり、適怨清和、節に随ひて移る、四絃一声泉を裂くが如し、撥きては復排く、一曲の清音梁上に燕飛び水中に魚跳るばかりなり、中納言ほのかに是を見給ひしより、人知れず思ひ初めける心の色、日に副て深くのみなり行けども、云ひ知らすべき便もなければ、心に籠めて歎き明し、思ひ暮して三年を過ぎ給ひけるこそ久しけれ、如何なる人目のまぎれにや、露のかどとを結ばれけん、一夜の夢の幻さだかならぬ枕をかはし給ひにけり、其次の夜のことぞかし、主上俄かに笠置へ落させ給ひければ、藤房衣冠をぬぎ戎衣に成りて供奉せんとし給ひけるが、此女房に廻り逢はん末の契も知りがたし、一夜の夢の面影も名残ありて、今一度見もし見えばやと思はれければ、彼女房の住み給ひける西に対へ行き見給ふに、時しもこそあれ、今朝中宮の召しありて、北山殿へ参り給ひぬと申しければ、中納言鬢の髪を少し切りて、歌を書き副へてぞ置かれける。
黒髪のみだれん世までながらへばこれをいまはのかたみとも見よ
此女房立ちかへり、形見の髪と歌とを見て読みては泣き泣きてはよみ、千度百度巻き返し心乱れてせん方なし、かゝる涙に文字消えていとゞ思ひに絶え兼ねたり、せめて其人の在所をだに知りたらば虎伏す野辺、鯨寄る浦なりとも、あこがれぬべき心地しけれども、其行衛いづくとも聞き定めず、又逢はん馬の憑もいざや知らねば余りの思ひに堪へかねて
書きおきし君がたまづさ身にそへて後の世までもかたみとやせむ
先の歌に一首書き副へて形見の髪を袖に入れ大井河の深き淵に身を投げけるこそ哀れなれ。 (太平記巻四)
藤房卿を画いた作
狩野常信筆 『楠公と双幅』 因州池田侯爵家旧蔵
与謝蕪村筆 『同』 東京帝室博物館蔵
土佐光起筆 『楠公義貞三幅対』 滋賀浅田家旧蔵
平林探溟筆 『藤房卿』 第二回文展出品
高取稚成筆 『藤房卿の草子』 第六回文展出品
小堀鞆音筆 『藤原藤房』 川崎弥惣吉氏蔵
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)