蒙恬

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もうてん


画題

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解説

画題辞典

蒙恬ほ支那の始皇帝の時の人なり、征北将軍となりて、北方胡地を略し、更に始皇に勧めて万里の長城を築かしむ、伝へていふ、蒙恬始めて筆を作ると、故に文人之を尊びて屢々図ず、円山応挙図する所あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那、秦の将軍、始皇帝の時、三十万に将として北の方、匈奴を伐たしめ、また万里の長城を築造せしめ長皇子扶蘇これを監した、扶蘇は守成器で父始皇帝の短所を知り、屡々直諌したが却つて宦官趙高等の軟派姦徒の讒にあひ、硬派の恬に託せられたが胡亥(皇少子)遺詔を矯めて扶蘇を殺し、恬も続いて毒を仰いで自殺した、なほ蒙恬初めて筆を作つたこと事類全書に見えてゐる。

博物志曰、秦蒙恬始造筆、或云舜始造。  (和漢三才図会)

これを図したるものに円山応挙の作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)