淀君

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よどぎみ


画題

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解説

画題辞典

淀君は太閤秀吉の側室なり、名は茶々、浅井長政の長女、母は織田信長の妹小谷の方なり、長政戦死の後、小谷の方子女を携へて信長に拠り、後柴田勝家に再嫁するに及び、淀君之に随ふ、尋いで勝家の秀吉に滅ぼさるゝや、小谷の方殉死し、淀君出でて織田長益に拠る、禿吉見てその艶麗を喜び、納れて側室となす、寵甚だ厚く後房を傾く、所生長に鶴松あり夭す、次いで秀頼を生み、威権益々赫々たるものあり、秀吉薨後大阪城に居り、幼主を輔けて、事大小となく悉く其の手に決す、時に侍臣大野治長との間に醜声あり、治長を重用して太閤以来の宿老雄将を遠ざけ、求めて豊臣家の羽翼を殺ぎ、徳川氏に謀られて漫りに兵を挙げ、元和元年五月八日徳川勢に破られて大阪城陥り、秀頼と共に自殺す、或は天下の美婦を以て太閤の寵を一身に集め、榮華を極めて事意の如くならざるなかりし前半生、天下の母堂として放縦の豪奢を尽くしながらも薄すれゆく豊臣の天下を見て、煩間、妬嫉、猜疑の間に苦しめる後半生、共に好個の詩材にして又画題たり、古く画かるゝ所少きも近来試みらるゝ所多し。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

豊臣秀吉の側室、姓は浅井、名は茶々、淀君又は淀殿と称へる、浅井長政の長女で、母の小谷の方は織田信長の妹である、長政戦死するや、小谷の方は子女を伴つて信長に拠つたが、柴田勝家に嫁することゝなつたので淀君も亦之に従つた、然るに勝家また秀吉に攻められて北庄の城に自刃し、小谷の方も之に殉じた、そこで淀君は叔父の織田長益に頼つたが、秀吉偶々淀君を見てその美貌を喜び容れて側室とし寵愛至らざるなく、遠征の途なほこれを伴つた、文禄二年秀頼を生むに及び勢力を加ふ、三年秀次自刃するや秀頼、秀吉の嗣となつたので、淀君は生母たる所以をもつて益々権力を振つたので、大名の中には私に心を寄するものあり、期せずして秀吉の正室杉原氏に心を寄するものと、淀君に与するものと二派に岐れて隙を生じた、慶長四年秀吉薨ずるや、秀頼を助けて大阪城に居り、権勢を恣にしたが、大野治長を近づけて乱行に及び、更に治長に勧められて秀頼をして事を起さしめ家康を図らうとしたが、戦利あらず元和元年五月八日大阪城陥り秀頼と共に自殺した、年三十九。  (野史)

北野恒富筆  『茶々』  第八回日本美術院展

市原寿一筆  『淀君』  第七回帝展出品

伊藤竜涯筆  『同』   同      

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)