楊貴妃

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総合

楊貴妃(ようきひ)

三番目物・鬘物・現在物

あらすじ

 唐土玄宗皇帝に仕える方士(呪術師)は、楊貴妃の霊魂の行方を探せという勅命を受ける。そして天上界から黄泉まで尋ね、ついに蓬莱宮まで赴くと楊貴妃の霊魂と出会うことが出来た。方士が楊貴妃没後の玄宗の嘆きを伝えると、楊貴妃は玄宗と誓い合った時のことを語りだす。また自分は実は天上界の仙女であり、仮の姿として人間界に生まれた、そして皇帝に召され契りを結んだと話す。

 思い出の霓裳羽衣(げいしょううい)の曲を舞い、去りゆく方士に形見の簪を与え、はかなげに見送る。

能絵 場面解説

 ワキ・方士がシテ・楊貴妃に天冠を捧げている場面である。「そよや霓裳羽衣の曲 そよや霓裳羽衣の曲そぞろに 濡るる袂かな」という謡のあとに「物着」になり、シテは天冠をつける。ここではワキは唐冠を着けている。この唐冠は、「鶴亀」のシテ・皇帝にも着けられるもので、唐人役としては正式な出立である。観世流謡本には、ワキは冠類は戴かないことになっており、本作品におけるワキとはいささか出立も違っている。唐冠との組み合わせや、本作品の描写からすると、装束はおそらく狩衣であろう。

 一方、シテの出立は、緋大口に唐織を壺折で着付けている。上に着付けたこの唐織は、能装束の中でも最も豪華絢爛なもので、これを緋大口に壺折で着付けることで、女性の貴人を表現している。装束はもちろん、楊貴妃という人物そのものの持つ華やかさもあいまって、本作品は上品で華やかな一場面を楽しむことができる。ようきひ


画題

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解説

画題辞典

楊氏、名は大直、唐の玄宗皇帝の妃なり、大直は故蜀州司戸玄琰が女にして、初め玄宗の太子壽王の妃たりしが、容色並び優れたるを以て、遂に帝之を奪ひて寵し貴妃となす、帝之より奢侈甚だし、已にして安藤山の反して其軍進んで闘中を犯すや、帝妃と共に出奔して馬嵬に次す、将士等乱因を以て貴妃にありとなし、帝に逼りて之を縊死せしむ、爾來楊貴妃は美人の標的となり、其像は和漢画家の写す所たり、我邦にては駒井源琦最も唐美人を巧にして貴妃を図せるもの亦二三にして足らず。駒井源琦筆(吉田丹左衛門氏所蔵)同(嘉納治郎右衛門氏所蔵)谷文晃筆(堀越福三郎氏所蔵)良尚親王筆(京都曼殊院所蔵)尚ほ長恨歌の條併せて参照すべし。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

楊貴妃は唐玄宗皇帝の寵妃、蜀州の司戸楊玄琰の女、初め皇子寿王の妃であつたが、武恵妃が薨じてから後庭に帝の意にかなふ者が無い、或る人楊貴妃のことを奏した、帝見て大に喜び寿王のためには韋昭訓の女を聘し、貴妃を召て宮に納れ大真と号した、大真歌舞をよくし音律に通じ聡明にしてよく帝の意を迎へたので、帝の寵日に加はり儀礼皇后と等しく、請ふ処聴かれざるなく、欲するもの得られざるはなく、その嗜む所の茘枝の如きは千里の遠くから取寄せた程であつた、天宝四年貴妃となり、父玄琰にも斉国公を追贈され一門悉く擢用され従祖兄楊国忠、妃の三妃皆栄華を恣にした、ある時妃、天の譴を蒙つた、すると髪の一部を切り佯つて謝罪決死の意を表した、帝大に驚き遽に召て寵遇もとの如く唯その意を迎へるに汲々たる有様であつた、十四年安禄山叛して妃及三姨の罪を数へ楊国忠を誅せんとした、帝、位を皇太子に禅つて軍を撫せしめやうとしたが、楊貴妃が阻んだので意を翻した、翌年禄山関に入る、帝西幸して馬嵬に遁れたが将士饑餓に頻し楊貴妃や楊国忠の非を鳴らし、遂に楊国忠を殺し、妃を路祠に縊つた、妃時に三十八、屍を紫茵に包んで路傍に埋めた。

なほちょうこんか「長恨歌」の項参照。謡曲『楊貴妃』は『長恨歌』の筋によつて作つたものである。

楊貴妃は美人の代表のやうに見られてゐたので、これを画いたものは極めて多い。

駒井源琦筆  吉田楓軒氏旧蔵

谷文晁筆   堀越福三郎氏蔵

良尚親王筆  京都曼殊院蔵

上村松園筆  第四回帝展出品

鴨下晁湖筆  第五回帝展出品

此の外、貴妃の浴する図は「長恨歌」の項に挙げてある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)