徳川光圀

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とくがわみつくに


画題

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解説

東洋画題綜覧

徳川光圀は幼名長丸また千代松九、字は徳亮、一の字観之、後、子竜と改む、日新斎、常山人、率然子、梅里等の号がある、私諡義公、世に水戸黄門、西山公といふ、水戸の藩主、寛永五年水戸城下三木之次の第に生る、十三年七月元服し従四位下に叙し十七年三月右中将に任じ、七月従三位に陞る、正保二年はじめて史記伯夷伝を読み、慨然として修史の志あり、且つ兄頼重を越えて世子となつたことを悔いた、明暦三年二月、大日本史の編纂に着手、寛文元年頼房薨ずるや、家臣中殉死せんとするものあるを聞き、天理人道を説て之を停めた、八月封を襲ひ、二年十二月参議となり三年十二月頼重の子頼方を立てゝ世子とした、これ兄を越えて家を襲だのに報ずるのであつた、五年には明の遺士朱舜水を聘して師とし道を問ひ、自ら弟子の礼を執り終始変る所がなかつた、その年十二月には藩内の淫祠三千八十八を毀ち、延宝五年には扶桑拾葉集が成つた、書名は実に後西院天皇の賜ふ処、勅撰に準ぜられ天覧を賜ふ、元禄三年十月致仕し中納言に任ぜらる、十二月水戸に帰り翌年西山に閑居し、五年には楠公の碑を湊川に建て、十三年十二月六日薨じた行年七十、久慈郡瑞竜山に葬る明治二年従一位を追贈された。  (国史大辞典)

水戸光圀の画像は京都高台寺に蔵す、又東京府養正館国史壁画には、太田秋民筆『光圀卿大日本史編纂』の作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)