定家

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ていか


画題

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解説

東洋画題綜覧

藤原定家のこと、鎌倉時代の歌人、俊成の子で治承寿永の間、正五位下に叙せらる、文治元年殿上で源雅行と争ひ燭を以て頬を打つたので籍を除かる、父俊成深くこれを憂ひ歌を作つてこれを喞つたので、後白河法皇聞召し之を憫み本位に復せしめられた、建仁中左近衛中将となる、定家夙に和歌で名を馳す、後鳥羽上皇嘗て召して、小御所に詣り和歌を判ぜしむ、定家深くその知遇に感ず、元久の初め上皇勅して源通具、藤原家隆、雅経等と新古今和歌集を撰ばしめらる、毎部先づ古人の作を首にした処、上皇勅して定家、家隆の作を部首に置かしめ給ふ、世これを栄とした、承元の初め、上皇当時和歌に名ある者をして最勝四天王院の障子に名所の歌を作らしめ上皇親ら之を撰ませられたが、この時も定家の歌が最も多きを占めた、建暦三年従三位に進み建保中参議に任ぜられ、治部卿となり正三位に進む、尋で民部卿に遷つた、貞応元年参議を辞し安貞元年正二位に進んだ、天福元年祝髪して名を明鮮と改め仁治二年薨ず、年八十、世に京極中納言といふ、定家の和歌の才は全く天資といふべく、史伝を渉猟し詩を善くし、また小倉山にあつて天智天皇より当時の歌人に至るまで一百人一首づゝを撰んだもの所謂小倉百人一首で、今日もなほ行はれている。なほその日録に『明月記』あり、家集を『拾遺愚草』といふ。

松花堂筆  『定家卿』遠州賛  池田侯爵家旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)