孔子

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こうし


画題

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解説

画題辞典

孔子、名は丘、字は仲尼、孔子は後世の尊称也。支那春秋の世、魯の襄公の二十一年庚子を以て生る。初め季子に仕え、後魯の宰となる、在ること僅に一年にして四方皆之に則るという、次いで相の事を行うに三月にして大に治るという。已にして定公の能く用いざるを以て魯を去り、諸国に遊歴して王道を説き、更に退いて三代の礼樂を追述す、詩三百五篇は是れなり、続いて春秋を作りて史筆の範を示す。哀公の十六年四月、年七十を以て卒す、魯の城北に葬る。弟子三千人、後世儒教の宗となし聖人として之を敬ふ。且形像には袞冕、犬司冠兀座、連行などあり。

伝呉道子筆孔子像(細川侯爵所蔵)、狩野探幽筆孔子像(備前池田侯爵旧蔵)、渡辺崋山筆孔子像(参河某氏所蔵)、五十嵐俊明筆孔子像(田中勘兵衛氏所蔵)、孔子曽子顔回三幅対(米国ボストン博物館蔵)。又三聖と題し釈迦老子と共に図するものあり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

孔子名は丘、字は仲尼、周の霊王の二十年(我が綏靖天皇三十年)十一月魯国昌平郷陬邑に生れた、その先、宋国の公族湣公難を避けて魯に移る、陬の大夫にして勇武の誉ある叔梁紇の代に至り、顔氏の女と野合して孔子を生む、孔子生れて首上圩頂である、これに依つて名づけて丘といふと、早く父を失ひ、母も赤青年時代に死別し、孤独貧賎、以て自活を余儀なくされた、孔子長じて、身長九尺七寸(一尺は約六寸)幼より礼を好み爼豆といふ祭器を以て喜戯したといふ、年十五、慨然として天下平和の主たらんと奮起し勤学を怠らず三十にして認められ南宮敬叔、先づ魯公に薦めて周に礼を問はしめた、この時老子に謁したのである、魯に仕へて穀倉吏となり、料量平かに司直吏となり六畜蓄息したのもこの時で魯大に治つた、帰国後弟子漸く進み、三十七歳の時魯大に乱れ昭公を扶けて斉に走り、斉の景公に説く所あつたが、その強きを以て魯に凌辱を加へることが出来なかつた、後、魯に帰り定公に用ひられ、中都の宰から大司寇になつた時に年五十、斉は魯が孔子の力によつて強大になるのを恐れ、これを誹謗した、孔子衛に適く、衛君用ふることが出来ず、宋に適くと却つて宋人害を加へやうとしたので、又去つて陳や蔡に適つたが糧食を絶たれ門人等大に苦しみ、「道大にして容れられず」と、楚に赴く、楚の君師を興し孔子を迎へ大に任用しようとしたが、執政の阻む処となつて止み、再び衛に帰つた時、魯は礼を厚くして孔子を迎へたので魯に帰任したが、政は大夫に帰して国事大に乱れた、孔子遂に仁道の行はれない事を知り断乎として仕ヘず、退いて詩、書、礼、楽を修め『春秋』を添削し、熱心に弟子に教へた、かく大聖孔子も時に合はず一生流浪辛惨を嘗め、周の敬王の四十一年四月十一日卒す、年七十四、弟子皆三年喪に服して去り、その門、魯人、孔子の冡に従つて家するもの百有余里、これを孔里といつてゐる、魯の哀公、孔子の歿後その旧宅に一廟を建立し番人を置いて守護させた、これ孔子廟のはじめである。

孔子像の画かるゝも、或は聖像として画かれたもの少くない、二三を挙げる

伝呉道子筆              細川侯爵家蔵

狩野探幽筆              池田侯書家旧蔵

狩野常信筆              紀州徳川家旧蔵

五十嵐俊明筆             田中勘兵衛氏蔵

探幽筆     孔子曽参顔回三幅対  ボストン博物館蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)