在原業平

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ありわらのなりひら


画題

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解説

平安時代初期の歌人。天長2年(825)~元慶4年(880)。六歌仙三十六歌仙の一人であり、その中でよく描かれている。在五中将、在五とも称させる。容姿に優れて、しかし放縦な性格であり、才学に欠け...===画題辞典===

世に在五中将という、阿保親王の第五子、天長年間在原の姓を賜はり臣藉に列す。美貌を以て知らる、伊勢物語には昔男としてその多情なる記事多く見ゆ。文徳天皇の世、天皇長子惟喬親王を太子とせんの意ありしも、藤原氏を憚リて果たす能はず、業平疾く心を惟喬親王に寄せ藤原氏と争うて遂に敗る。又藤原良房が其女高子を清和天皇の後房に納れんとするを見、之を妨げんとして、密かに高子に通じ、その五条宮に在るを誘いて宮外に奔る。基経等大に怒り、業平を東国に逐う。業平即ち海道を下り、三河国八橋を過ぎて「から衣きつゝなれにし妻しあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」の歌あり、また富士山を望みては「時しらぬ山は富士の根いつとてかかのこまだらに雪のふるらん」と詠み、隅田川に都鳥を見ては「名にしおはゞいざこととはん都鳥わがおもふ人はありやなしや」と詠ず、世伝えて絶唱となす、後都に帰り文慶年中卒す。その東下の詩的行旅は古来画家の筆に上る所たり、「なりひらあずまくだり」(業平東下)、「たきみなりひら」(滝見業平)及「いせものがたり」(伊勢物語)等を見るべし。

狩野探幽、緒方光琳等の作あり、

肖像として画かれたるものは大和不退寺にあり、国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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阿保親王の五男。從四位上、右近衛中将にまで昇進。体格や容貌が上品で美しく、わがまま無作法なふるまいをする性格で、毀誉褒貶を顧みず、当世の不条理なところに憤慨していたと思われる。歌を詠むことに秀でて、後世では僧遍照、文屋康秀、僧喜撰、小野小町、大伴黒主とともに六歌仙と評価されている。。元慶中卒、享年五十六歳。世間では在五中将と呼ばれている。息子の棟梁と滋春が、和歌に長けていた。

五条のきさいの宮の西のたいに住ける人に、ほいにはあらでものいひわたりけるを、む月の十日あまりになむ、ほかへかくれにける、あるところは聞けれどえ物もいはで、またのとしの春、梅の花さかりに月のおもしろかりける夜、去年をこひてかのにしのたいにいきて、月のかたぶくまであばらなるいたじきにふせりてよめる

月やあらぬ 春や昔むかしの はるならぬ わが身ひとつは もとのみにして

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

平安朝の歌人、阿保親王の五子、世に在五中将、又在中将といふ、天長年間父親王の奏請により兄行平と共に在原朝臣の姓を賜ひ、臣籍に列す、貞観年中右馬頭に任ぜられ勅を奉じて鴻臚館に渤海使人を労す、右近衛中将となる。是れより先、文徳天皇、惟喬親王を愛して太子とせられやうと思召したが、藤原氏の出でないので己を得ず藤原良房の女、明子を母とする四子惟仁親王に譲位し給うた、清和天皇である、天皇時に御年僅に九歳、良房はその養子基経と共に、長良の女高子を納れ天皇に配せんとした、業平は夙に心を惟喬親王に寄せてゐたので、文徳天皇御譲位の折にも惟喬親王を立てゝ大に藤原氏と争つたが遂に敗れたので、良房が高子を後宮に納れんとするを見て心平かならずこれを妨げやうとして密に高子と通じ、且つ五条宮に誘ひ宮外に走つたので、基経は大に怒り業平の髻を切つて東国に逐うた、これが即ち『業平東下り』である、幾何もなく業平は再び都に帰つたが、高子は業平と通じた故を以て清和天皇の女御とはなれず、内侍として後宮に入り貞観七年皇子陽成天皇を生んだ、こゝで業平の計画は全く画餅に帰してしまつた、十四年惟喬親王出家し給うたので又栄達の志なく、放縦不羈の生活に帰つてしまつた、併し惟喬親王に対する志は毫も変らず、雪中小野の山荘に親王を訪ひ、帰るに臨んで、

忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見むとは

の一首を詠じた、元慶年中相模、美濃の権守を歴て四年五月廿八日死す、年五十六、業平性放縦なるも容貌端麗、和歌をよくしたこと世に名高く、その『東下り』は『伊勢物語』の一節として人口に膾炙されてゐる。

昔男ありけり、その男身をえうなきものにおもひなして、京にはあらし、あづまの方にすむべき国もとめにとてゆきけり、もとよりともする人ひとりふたりしていきけり。道しれる人もなくてまとひいきけり、三河の国八つ橋といふ処にいたりぬ、そこを八つ橋といひけるは、水ゆくかはの蜘手なれば橋を八つわたせるによりてなん、八つ橋といひける、そのさはのほとりの木のかげにおりゐて、かれいひ食ひけり、そのさはに、かきつばた、いとおもしろく咲きたり、それを見て、ある人のいはく、かきつばたといふいつ文字を句のかみにすへて、旅の心をよめといひければ、よめる。

から衣きつゝ馴にしつましあればはるばるきぬる旅をしそ思ふ

と、よめりければ、みな人かれいひの上に涙おとしてほとひにけり。

ゆき/\て駿河の国にいたりぬ、うつの山にいたりて、わかいらんとする道は、いとくらう、ほそきに葛かつらはしげりて、物心ほそくすゞろなるめをみる事とおもふにす行者あひたり、かゝる道は、いかでかいまするといふをみれば、見し人なりけり、京にその人の御もとにとて、ふみかきてつく、

するがなるうつの山べのうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり

富士の山をみれば、さ月のつこもりに、雪いとしろうふれり。

時しらぬ山はふじのねいつとてかかのこまだらに雪のふるらん

その山はここにたとへば、ひえのやまをはたちばかりかさねあけたらんほとして、なりはしほりのやうになん有ける。

なほゆき/\て、むさしのくにと、しもつふさの国との中に、いとおほきなる川あり、それをすみた川といふ、そのかはのほとりにむれゐて、おもひやれば、かぎりなくとをくもきにけるかなと、わびあへるに、わたしもりはや舟にのれ、日もくれぬといふに、のりてわたらんとするに皆人ものわびしくて、京におもふ人なきにしもあらず、さるおりしも、しろき鳥のはしとあしとあかき、しぎのおほきさなる、水のうへにあそびつゝいををくふ、京にはみえぬ鳥なれば、みな人みしらず、わたし守にとひければ、これなん都鳥といふをききて、

名にしおはゞいさことゝはん都鳥わかおもふ人ありやなしやと

とよめりければ、こぞりて泣きにけり、その川わたりすきて、都にみしあひてものかたりして、ことつてやあると、いひければ、

みやこ人いかにととはゞ山たかみはれぬ雲ゐにわふとこたヘよ。  (伊勢物語、九段)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)