八百屋お七

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恋のため放火し、火刑に処せられたと巷説に伝えられる八百屋の娘。巷説では、江戸本郷駒込の八百屋の娘で、天和二(1682)年十二月の大火で檀那寺に避難した時に知った寺小姓(左兵衛と伝えられる)と通じ、帰宅後恋しさのあまり、寺の門前に住む無頼漢吉三郎にそそのかされ、火事にあえば再度その寺に行かれると思い込み放火、翌三年三月十六歳で火刑に処せられたと伝える。浄瑠璃・歌舞伎に脚色され、小姓は吉三郎、寺は本郷の吉祥寺に設定される。紀海音作の浄瑠璃『八百屋お七歌祭文』(宝永一(1704)年二月)が戯曲化の最初とされ、同人の『八百屋お七恋緋桜』(享保十七(1732))、菅専助の『伊達娘恋緋鹿子』(安永二(1773))などとその他脚色の進化を見せ、桜田治助作『其往昔恋江戸染』(文化六(1809)年三月 江戸森田座)あたりでほぼ形が定まる。この間宝永四年の嵐喜代三郎のお七の好演が、同優の家紋、丸に封じ文をお七の紋とするイメージを定着させ、『恋江戸染』では五世岩井半四郎のお七が浅葱麻の葉と緋鹿の子の着付けの型を残し、その他火の見櫓の太鼓を打ち、町木戸を聞かせる脚色も途中から定着し、八百屋お七狂言の要所を形作る。これらの上演錦絵のほか、情話題材の見立絵にこの女性は数多く扱われ、小姓吉三との色模様、火の見櫓に上って太鼓を打つ場面、まれに刑場に曳かれる姿等が描かれ、ほぼどの図にも前述の象徴要素のどれかが描き添えられている。 (原色浮世絵百科大事典 第四巻より)やおやおしち


画題

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解説

(分類:戯曲)