特
徴 |
年 |
内 容 |
戦時統合下の設立
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1941
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8月 情報局から映画会社2社統合の政府案提示。 9月 永田雅一が情報局と折衝し、3社統合案成立。
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1942
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1月 新興キネマ、大都映画、日活製作部門の合併による「大日本映画製作株式会社」(大映)創立総会が開催され、翌2月には第1回作品「尊王櫻」(『維新の曲』)の製作が開始される。
4月 「大日本映画製作株式会社」が発足し、大映京都第一撮影所(旧日活京都撮影所)、第二撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)において、本格的に始動。 |
1943
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3月 組織改革により東京と京都の撮影所を合併。第一撮影所(旧日活)が「京都撮影所」となり、第二(旧新興)が「京都分撮影所」と改称された。
6月 京都撮影所が『成吉思汗』で日本映画初の海外ロケを果す。 |
1944
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『菊池千本槍』『かくて~風は吹く』『狼火は上海に揚る』の時代劇3大作を発表し、京都撮影所の底力を発揮。 |
改称から戦後復興へ
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1945
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8月 終戦。
11月 社名を「大日本映画製作株式会社」から「大映株式会社」に改称。 |
1946
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9月 『無法松の一生』を代表作とする脚本家・伊丹万作逝去。 |
1947
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1月 東急電鉄資本により設立された「東横映画株式会社」(東映の前身)との提携が成立し、京都分撮影所(現東映京都撮影所)を貸す。
3月 第10回定時株主総会で永田雅一が社長に昇格。 |
1948
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永田雅一社長が公職追放されるが、半年で解除され社長に復帰。 |
1949
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8月 永田社長が米国映画界視察。この時持ち返ったレンズなどが『羅生門』に用いられる。 |
世界の大映技術力
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1950 |
2月 新演伎座(社長・長谷川一夫)と2年間の専属契約を締結。
4月 黒澤明を含む監督5名と1年契約を締結。
8月 『羅生門』完成間際、京都撮影所第2ステージより出火し、同ステージ全焼。
9月 国内での大々的な共産主義者排除で、大映京都撮影所においてもレッドパージが行われる。 |
1951 |
8月 『羅生門』が第12回ヴェニス国際映画祭グラン・プリを獲得。
11月 大映創立10周年記念祝賀式典を開催。京都撮影所にステージを新しく増設。 |
1952 |
5月 『源氏物語』で杉山公平カメラマンが第5回カンヌ国際映画祭撮影賞を受賞。
7月 碧川道夫・横田達之両カメラマン、特殊撮影技術の研究と、大映初のカラー映画製作準備のため技術者として戦後初の渡米。 |
1953 |
3月 衣笠貞之助監督、杉山公平カメラマンたち、大映初のカラー映画製作準備のため渡米。
4月 資本金を4億円に倍額増資することを決定。
9月 『雨月物語』が第14回ヴェニス国際映画祭銀獅子賞を獲得。 |
1954 |
3月 大映初のカラー映画『地獄門』が第7回カンヌ国際映画祭グラン・プリを獲得。
6月 資本金の増額枠を昨年の4億から12億に拡大。
7月 興行部門として「大映興行株式会社」設立。
8月 『山椒大夫』が第15回ヴェニス国際映画祭銀獅子賞を獲得。 |
1955 |
3月 京都撮影所にスタッフ・ルーム、大道具倉庫を新設。大映所有の東映京都撮影所を東映へ売却。『地獄門』が54年度米国アカデミー賞外国映画特別賞および色彩映画衣裳デザイン賞を獲得。
9月 『雨月物語』が英国エジンバラ映画祭ゴールデン・ローレル賞を受賞。溝口健二監督、取締役に就任。 |
二本立てとワイドスクリーンの時代 |
1956 |
日本映画界は東映を筆頭に「二本立て興行」になり、量産時代へ突入する。
3月 テレビ進攻の対策に邦画各社は大型映画制作に乗り出す。大映はビスタ・ビジョンを採用することに決定。
8月 大映監督陣の柱であった溝口健二死去。社葬が行われる。 |
1957 |
4月 曽我正史専務が新たな製作-興行系統を目指した日映株式会社を設立し、大映から14名が転籍。
7月 経費のかさむビスタ・ビジョン方式から、他社に習いアナモフィック・レンズを使用する通称「大映スコープ」に変更。
11月 日本一の設備を誇る大型A2ステージ完工。 |
1958 |
8月 『日蓮と蒙古大襲来』のために特撮用大プールとオープン・ホリゾントを建設し、東西両撮影所作品の特撮用に使用。 |
1959 |
2月 永田社長は六月一週から一本立大作主義の断行を発表。
3月 タイ国アスビン・ピクチュアーズとの合作『山田長政・王者の剣』を製作。 |
1960 |
2月 アジア方面への映画輸出契約締結。
5月 市川崑監督『鍵』が第13回カンヌ国際映画祭特別賞を受賞。
9月 日本初の70ミリ映画『釈迦』の製作が正式決定。 |
1961 |
『釈迦』の撮影が、永田社長の意向により、釈尊の生誕記念日である4月8日にクランク・イン。大作主義の方針を反映した、規模・話題ともに前代未聞の製作状況を経て、11月に東京・有楽座と大阪・南街劇場で封切られる。両館とも最高興収記録となる盛況ぶりで、これを機に大型映画時代が到来する。 |
1962 |
永田社長・森田外国部長らが合作交渉のために頻繁に海外へ渡る。台湾・中央電影と大映70ミリ映画第2作『秦・始皇帝』、米ハロルド・ヘクト・プロと特撮を用いた映画『あしやからの飛行』の合作契約を締結。 |
勝新・雷蔵作品の活況
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1963 |
3月 第42回定時株主総会が開催され、『新・悪名』『斬る』『秦・始皇帝』などのヒットで総収入は増収であったが、体質改善のための諸償却により、戦後初の無配となる。
6月 無配転落や4月に起こったストなどを受けて、営業・製作両部門の機構改編を行う。 |
1965 |
東撮での賃上げ春闘に端を発する労使紛争は、東西両撮での永田社長の訓示もあり、3ヶ月余りを経て、ようやく解決する。しかし、その影響は大きく、「座頭市」「兵隊やくざ」シリーズ等で好成績を収めたにもかかわらず、無配が続く。これを受けて、”少数精鋭”・”適材適所”の基本方針のもと、機構改編・新体制人事を行うとともに、人員整理のために希望退職者を募り、8月末までに155人が退職。 |
1966 |
2月 日ソ合作『小さい逃亡者』の製作を発表。
11月 『大魔神』の特殊撮影技術が評価され森田富士郎、黒田義之らスタッフが数多くの賞を受賞。勝新太郎が勝プロダクション創設。 |
1967 |
1月 ポルトガルとの合作『鉄砲伝来記』の製作を発表。
3月 レコード部門を新規事業として開設、第1弾は勝新太郎が歌う「座頭市の歌」。
8月 京都撮影所で制作された勝プロ第1作『座頭市牢破り』公開。役員陣の若返り、借入金の返済、斬新な人事に京都撮影所の稼動を加えた再建策を掲げ増収と経営の建て直しを目指す。 |
映画産業の斜陽化
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1968 |
旧作や不動産売却に踏み切るが累積赤字償却のため増収にいたらず。トップスター田宮二郎が『不信のとき』(7月公開)ポスターの掲載順に納得いかず大映を退社。 |
1969 |
7月 大映時代劇人気を支えたトップスター市川雷蔵死去。
8月 映画人口は3億人を割り込み戦後最低を記録。経営が悪化の一途をたどる中で永田は東西両撮影所で全所員を励ました。 |
1970 |
経営難の再建策として、新会社「ダイニチ配給」を同じく経営難の日活と共同で設立。また梅田大映を売却し、次々と人事を更新するも、延命措置的なものとなった。 |
倒産から再建へ |
1971 |
大映本社売却に至り、全従業員の4分の1を解雇。スリム化を図るも、10月18日の役員会で映画製作の中止が決定され、11月29日、副社長の永田秀雅が全業務の停止を宣言。12月21日不渡りを出して倒産。大映30年の歴史にピリオドが打たれる。 |
1972 |
倒産後、初の債権者会議開催。債権は給与未払いを含め76億円。
3月 西岡善信を取締役に映像京都設立。 |
1973 |
大映再建策として、資本金4億円人員57名程で劇映画年間2本とテレビ映画を主に製作する旨、管財人から提案。労組側は大映支援共斗を結成し、300人程度の雇用、旧経営陣の責任、新たな融資など要求し、抗議行動を継続。
3月 国会において、「大映をめぐる黒い霧問題に関する声明」が発表される。 |
1974 |
管財人と労組との話し合いで、新経営者を徳間康快とする。京都撮影所の23000平方メートルのうち、約10000平方メートルを京都市に、東京撮影所の敷地半分を調布市に売却、負債処理に当てた。徳間社長は勝プロと提携を話し合う。9月1日、大映倒産以来3年8ヶ月ぶりに新生・大映映画として営業を再開。 |
1975 |
大映映画第1回作品『わが青春のとき』の記者会見と、映像京都、ATG、たかばやしよういちプロの提携作『本陣殺人事件』の製作発表が行なわれた。徳間社長の希望でプロデューサーに復帰した永田雅一相談役が『君よ憤怒の河を渉れ』の製作を発表。 |
1976 |
2月 『わが青春のとき』の製作を発表。
10月 永田プロ・大映映画製作の『ひとごろし』『妖婆』が公開される。 |
1977 |
5月 大映京都撮影所の縮小・合理化案が大映労組の京都撮影所支部で検討される。
9月 東西撮影所などが(株)大映映画京都撮影所、(株)大映映画撮影所、(株)大映配給、(株)大映映像の4社に分離独立することが発表される。 |
1978 |
6月 永田雅一プロデューサーが『日蓮』の製作を発表。 |
貸しスタジオ、そして閉鎖へ |
1979 |
9月 東西撮影所や営業所を独立させた4社が、新会社として正式にスタート。(株)大映映画京都撮影所は映画・テレビ製作及びレンタルを行う。 |
1980 |
大映倒産時の債権終了。 |
1986 |
『十手舞』を最後に大映映画京都撮影所を閉鎖。 |