船乗りと七つの海の歌18世紀後半から19世紀前半にかけて、アメリカは外国貿易により大きく経済成長しました。セイレムやボストン、ニュー・ベッドフォードといった大西洋岸の年はこの時期に発展し、ニューヨークも1814年戦争終結後、ヨーロッパ向け商船の母港としてにぎわいます。一方、ニューオーリンズをはじめとする南部の港は、綿花貿易と奴隷貿易を中心とする基地になっていました。捕鯨もまた盛んで、アメリカは世界一の捕鯨国でした。白い帆を張った帆船は改良が進んでトン数が飛躍的にのび 、1825年に最大が361トンであったのに 、1835年には833トン 、1855年には2145トンにまでなりました。 帆船時代の船乗りにとって、歌は仕事に欠かせない重要なものでした。帆を揚げたり碇を揚げたりするたびに、水夫たちは並んでいっせいに綱を引き、または機械を押して回ります。全員の力をうまく合わせて能率よく仕事するには、歌で調子をとるのが一番だったのです。海の仕事歌を代表するのは、労働の呼吸が伝わるほどシンプルな「引き歌」です。「引け、引け、ともに引いて歌え*音楽1」 (音楽:"Haul Away, Joe" Party Songs / Sings and Playsより)と始まる歌では、これに「引け、引け、ジョー」というリフレインがついて1番の歌詞の全部になっています。続く歌詞も簡単で、「アイルランド人の女は、でぶで怠け者」というのが2番の歌詞。「黄色い(東洋人の)女は、腹の立つことばかり」が3番の歌詞というように、女を並べて粗雑に描写していきます。けなし方が乱暴なほど、綱を引く手に力がはいるのでしょうか。でも、女性の出身が各地に及んでいて、はからずも歌で世界を巡る仕組みになっています。 水夫たちが陸で過ごす時間は限られていたので、女性との関わりはどうしても一時的になります。そこがカウボーイと似ているところで、水夫もまたロマンチックで悲しい恋の歌を好みました。海に出た恋人や夫を切なく待つ女性の歌*2が多いのは、そんなふうに待っていてもらいたいという水夫たちの願望の表れでしょう。実際、船乗りの多くはひとつの港で一人だけの女性と関わり、彼女たちを「妻」と呼んだのだそうです。このようにセンチメンタルな一方で、船乗りをだます悪い女たちも歌にはたくさん登場します。酒を飲んだあと女性と宿屋へ行って眠って目覚めると、財布ばかりでなく服も靴も女性とともに全部なくなっていたというような歌*3(音楽:"New York Gals" Scottish and Irish Sea Songsより)は、かなり如実に現実をあらわしていたようです。 船乗りは出身や人種を問わない職業でした。少なくとも平水夫はそうでした。しかも季節労働者的なところもあって、波止場人夫や木こりなどの仕事がないときに船に乗る人がたくさんいたのです。しかも異文化の土地へ移動していくわけですから、船乗りの歌は多様性をもつようになりました。また、歌が人とともに拡散していきました。メイン州の深い森の中で海の歌がうたい継がれていたり、海の歌によく似た森の歌がみつかったりするのはそのせいなのです。 |
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たとえば、“The Sailor Boy” or “My Love Willie,” Songs of the Sea (1980) Folkways, FSS37315. |