神武天皇
じんむてんのう
画題
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解説
(分類:神話)
画題辞典
神武天皇、御諱は狭野、又神日本磐余彦々火々出見尊と称す。彦波瀲武鸕鶿茅葺不合尊の第四皇子なり、長じて皇兄五瀬命と謀り、天業恢弘を策し、瓊々杵尊已来の御居日向国高千穂を発して海路東国に向ひ、豊国の宇佐筑紫の岡田宮を経て安芸多祚理の宮に在まし、又吉備国高島宮に居る、前後凡そ十餘年にして更に発して東を志し、浪速を過ぎて日下の蓼津に至り、土酋長髄彦と戦うて利あらず、五瀬命流矢に中たり紀の国に至りて遂に薨ず、天皇獨り進んで熊野の険を越えて吉野より進む、大倭の酋長等皆迎へ降る、兄猾(えうかし)なるものあり、強暴にして陰謀あり、即ち之を殺し、進んで忍坂に至り八十梟帥を斬戮し、終に登美の軍を破る、饒速日命、登美の君長髄彦を誅し衆を率ゐて降り、天の瑞宝を献ず、是に於て中州悉く平ぐ、此役天皇常に意志安閒歌謡を以て軍気を鼓舞し機に応じ変に処し遂に群醜を蕩除す。続いて土蜘珠、新城戸畔、居勢祝、猪祝等を誅し、全く中州を平定し、大和国橿原を都と奠めて天皇の位に即き、万衆に君臨す、即ち我国初代の天皇にして、紀元元年辛酉の歳なり、神籬を建て八神を祭り国家を鎮護し、登美の山に皇祖天神を祭り、三種の神器を正殿に安んじ、天子は牀に居て政事を聴断す、建国の大業茲に成る。位に在ること七十六年、聖壽百二十七を以て崩ず。天皇熊野より中州に入る時、山路険絶嚮ふ所を知らず、会々頭八咫鳥ありて嚮導すという故事により、天皇を図するに頭八咫鳥を画くものあり、又長髄彦を討つ時、連戦克たず適々天陰り雨水下る、此時霊鵄来りて天皇の弓弭に集る、金色曄煌状流電の如し、敵軍迷眩して戦ふ能はざるものありと伝ふ、此の天祐も亦屡々図すらるゝ所となす。
(『画題辞典』斎藤隆三)
東洋画題綜覧
神武天皇、御諱は狭野、又神日本磐余彦彦火火見尊天皇と称へ奉る、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四皇子に在し、御母は海神の女、玉依姫、人皇第一代の天皇、瓊々杵尊以来世に日向国高千穂宮に在し四方を統治し給うたが、天皇の時に及び皇兄五瀬命と議し天業を恢弘せんと図り給ひ茲に都を東国に移すの策を決し、即ち舟師を率ゐて日向を発し豊国宇佐を経て、筑紫岡田宮に在す事一年、安芸多祁理に在す事七年、更に海路より浪速を過ぎ、日下の蓼津に至り長髄彦と戦ひ、利あらず五瀬命は流矢に中らる、天皇即ち舟師を転じて紀伊国竃山に至り給うたが五瀬命は遂に薨去あり、天皇は進んで丹敷戸畔を誅し更に大和の菟田に入り兄猾を討ち弟猾を降し、尋で兄磯城等を誅して皇威大に振ふ、饒速日命之を聞き大に懾れ、長髄彦を殺して降伏す、更に土蜘蛛、新城戸畔、居勢祝、猪祝等皆誅に伏し中州全く平定したので都を大和国畝傍橿原に奠め、はじめて天皇の御位に即かせ給ふ、かくて大八洲を統治し給ひ御在位七十六年にして崩御し給ふ、聖寿百二十七。 (日本書記―大日本史)
きんし「金鵄」及び、からす「鴉」項中、やたがらす「頭八咫烏」(頭八咫鴉)の項参照。
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)