「武田信玄」の版間の差分

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2017年10月23日 (月) 20:27時点における最新版

総合

武田春信(たけだ はるのぶ)


画題

画像(Open)


解説

(分類:武者)

東洋画題綜覧

戦国時代の武将、幼名を太郎といふ、大永元年辛巳甲府躑躅ケ崎第に生る、天文五年正月元服し従五位大膳大夫兼信濃守に任ぜられ、将軍義晴の偏諱を得て晴信といふ、永禄二年から法号を信玄と称す、十年六月家を嗣ぎ先づ信濃を略せんとして諏訪氏を滅し、小笠原氏に迫り村上義清を追ひ、尋で木曽を略し川中島に上杉謙信と戦ふ事数度、その上杉氏と戦ふに当り、今川義元と会して盟を重ね、北条氏と和親を結び、かくて専ら謙信に当り、共に西上野に兵を出し威を振つた、然るに義元は桶狭間に於て織田信長の為め斃さるゝや、嗣子氏真の暗弱に乗じ、徳川家康は三河に起り遠江を侵したので、信玄亦駿河に兵を出して之を略した、是に於て北条氏も信玄を敵とするに至り、信玄ほ上杉徳川今川北条の四氏を向ふに廻して戦ふこととなつた、十二年十月親ら小田原城に迫つたが氏康等戦はなかつたので甲斐に帰らうとし、途中北条氏照同氏邦に出逢ひ之を三増峠に破り、三方ケ原では徳川織田両氏と戦ひ、天正元年正月十一日には三河野田城を攻め、二月十日之を陥れたが、此の時信玄既に病を獲てゐたので、鳳来寺に病を養ひ、病漸く進まんとしたので甲府に帰らうとして信濃の駒場に歿した、歳五十三。

武田信玄の画像は高野山成慶院にあるもの世に知られ、武州金久保陽雲寺にも信玄夫妻の画像を伝へ、近くは帝展第十一回に小堀安雄筆『甲斐勇将』の作があり。その温泉に病を養ふ図は池沢青峰筆『湯治』で、新帝展第一回の出品である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)