巴は、平安時代末期~鎌倉時代初期の女性で、生没年不詳、その実在の正否についても未詳である。『平家物語』においては、容姿端麗ながらも一騎当千をうたわれる女武者として描かれている。彼女は、木曽義仲方の一方の大将をつとめ、義仲軍が主従五騎になるまで討たれてもなお彼に付き従った。巴は最後まで義仲と共に戦うことを願ったものの、討死を決意した義仲の命によりやむなく戦場を離脱することになるのだが、義仲への最後のはなむけと言わんばかりに、敵方の大将の首をねじ切ってみせる。『平家物語』の一異本である『源平盛衰記』においては、のちに鎌倉に召し出され、和田義盛の妻となり朝比奈三郎義秀を産む。和田親子の死後は出家し、義仲や和田親子の菩提を弔いつつ91歳まで生きたとされる。
『平家物語』『源平盛衰記』における巴の登場場面はごく短いものである。しかし、『平家物語』に登場する女性の中でも異彩を放つ合戦での活躍、『源平盛衰記』で新たに加えられた女性としての生き様は、後世の絵画・大衆向けの本・伝統芸能などの格好の題材となっている。
このパートでは、(1)『平家物語』中の戦闘描写から引き継がれる女武者としての力、(2)『源平盛衰記』中の描写に代表される女性性、これら2つの要素に着目して、英雄性を検証していきたい。(菅.)
【補足説明】
「巴御前」という呼び方について
一般に「巴御前」と呼ばれることの多い巴。しかし、この呼称は『平家物語』諸本にはみられず、一異本である『源平盛衰記』もその例外ではない。諸本においては「巴」、あるいは文字を変えて「鞆」「伴絵」などと記されてはいるものの、そこに「御前」と付けて呼ばれることはない。後世になって「巴御前」と呼ばれることが一般化したようである。
「御前」というのは、一般的に貴人と関わりを持った女性への敬称として考えられており、義仲の妾となった巴をそのような敬称をもって呼ぶことは不自然なことではない。同じく源平合戦にかかわる女性で義経の妾となった白拍子静、『曽我物語』において曾我祐成の妾となった遊女虎がそれぞれ「静御前」「虎御前」と呼ばれているのも同じ理由であろう。
だが、「御前」という敬称をもって呼ばれる彼女らの共通項がこれだけであるとするならば、物語に登場する時点で「御前」と付けて呼ばれていてもおかしくない。ここで注目すべきは、彼女らが「亡者を弔い、物語る」役割を持つ点である。静は義経の跡を慕い旅に出たり、その菩提を弔ったりする。虎は、曽我兄弟の菩提を弔うために廻国修行に出る。巴は、『源平盛衰記』巻35「巴関東下向事」において、討死した義仲について彼の妻子に語り、のちには出家し義仲だけでなく和田親子の後世をも弔うこととなる。関わりを持った貴人の存在を後の世に伝え残すような役割を担う彼女らには、物語の「内」だけでなく、物語以後の「外」の世界にも影響を及ぼす力がある。この力によって、巴・静・虎自身、ひいては彼女らと関わりを持った貴人の名が現在まで残っているといっても過言ではないだろう。
また、各地を巡遊する盲目の女芸能者を指す「瞽女(ごぜ)」という語は「御前」のなまったものとされる説が存在するのであるが、ここにも「弔い、物語る」役割を持つ女性と「御前」という呼称のつながりを感じることができる。
つまり、巴「御前」という呼称は、単に義仲の妾として戦功をあげた女武者・巴に対する敬称というだけでなく、義仲をはじめとする貴人を弔い、物語り、後世に彼らの名を残すような、巴の持つ「女性の力」を体現する語であるといえる。
【参考文献】
水原一『平家物語の形成』1971 加藤中道館
筑土鈴寛『中世藝文の研究』1966 有精堂出版
角田文衛『日本の女性名 歴史的展望(上)』1989 教育社
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