源平合戦の時代にも、武勇や悲劇性でもって名を残した女性達がいる。本パートでは、時の権力者であった清盛に関わり、悲劇性を以って名を残す四人、祇王・祇女・仏御前・小督に焦点を置いて見ていきたい。
これらの女性の物語は、「平家物語」をもととしながらも、時代とともに形を変えつつ、後世に伝えられた。たとえば、「平家物語」の叙述と同様に仏教的色彩が強い能の作品群。近世に入ると、都市の芸能として娯楽性を強めた、浄瑠璃や歌舞伎。文耕堂作の「仏御前扇軍」は、近松門左衛門最晩年の添削を受けた作品で享保7年9月竹本座の初演。この物語には本コーナーで取上げる4人の女性全員が登場する。場面ごとにその原典である「平家物語」を下敷きとしながらも、新たな役割が付与された。さらには、近世中期以降になると、ただの悲劇としてではなく、うがった視点で笑いをさそう川柳の表現もある。
権力者である平清盛によって悲劇的な物語となった四人の女性の特徴やその逸話を、ただの悲劇として同情的に受け取るのではなく、もう一方の視線で受け入れられた多様な展開を辿ってみたい。 (窪.)
【祇王・妓女・仏御前】
時は平家全盛期、天下は平清盛の掌中にあった。その頃、都で評判の白拍子に、祇王・祇女という姉妹があった。姉の祇王は清盛に寵愛されたので、妹の祇女も世にもてはやされ、母の刀自も立派な家屋に住まわせてもらえるようになり一家は富み栄えた。
三年が経つ頃、また京都に評判の高い白拍子が一人現れた。加賀国の者で年は16歳、名を仏という。そんな彼女が「自分の舞を見てほしい」と清盛のもとを訪れた。しかし清盛は追い出そうとした。すると祇王がとりなしたので、「そんなにお前が言うのなら」と清盛は仏御前を呼び戻した。
仏御前の今様も舞もとても見事で、見聞きしていた人はみなびっくりした。清盛もすぐに仏御前に心を移してしまい、仏御前をそばに置こうとした。仏御前は驚いて「追い出されそうになったのを祇王御前のおとりなしにより呼び戻していただいたのに、私を召し置かれるなどとなったら祇王御前に対して気恥ずかしくございます。さっさとお暇をくださいませ」と清盛に申し上げたところ、清盛は、「祇王がいるので遠慮するのであれば、祇王を追い出そう。祇王、さっさと退出せよ」と命じて祇王を追い出してしまった。
祇王はもとから、いつかは追い出される身であろうことは覚悟していたが、それでもこんなに早く追い出されるとは思ってもみず、せめてもの形見にと、襖に泣く泣く一首の歌を書きつけた。
「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはではつべき」
(春に草木が芽をふくように、仏御前が清盛に愛され栄えようとするのも、私が捨てられるのも、しょせんは同じ野辺の草―白拍子―なのだ。どれも秋になって果てるように、誰が清盛にあきられないで終わることがあろうか)
我が家に戻った祇王は、倒れ伏してただ泣いてばかりいた。そのうちに毎月贈られていたお米やお金も止められた。
翌年の春、清盛が祇王のところへ使いを出し、「仏御前が寂しそうにしているから、一度こちらへ参り今様をうたい舞も舞って慰めてくれ」と命じた。母の刀自に説得され、祇王は泣く泣く西八条へと赴いた。
祇王はずっと下手の所に座席を設けて置かれ、悔し涙を袖でおさえた。仏御前はそれを見てあまりにも気の毒に思ったが、清盛に強く止められて何もできなかった。祇王は清盛の言う通りに今様をひとつうたった。
「仏も昔は凡夫なり 我等も終には仏なり
いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそかなしけれ」
(仏も昔は凡人であった。我等もしまいには悟りをひらいて仏になれるのだ。そのように誰もが仏になれる性質をもっている身なのに、このように仏--仏御前--と自分を分け隔てするのが、誠に悲しいことだ)
祇王は邸をあとにし、自らの命を絶とうとした。すると妹の祇女も一緒にという。しかし母の刀自に泣く泣く教え諭され、都を出て尼になる決心をした。三人は嵯峨の奥の山里にそまつな庵を造って念仏を唱えて過ごし、一途に後世の幸福を願った。
春が過ぎ夏が過ぎ、秋の風邪が吹き始めるころ、ある夜竹の網戸をとんとんとたたく者がある。こんな夜更けにこんな山里にいったい誰であろうと恐れながらも出てみると、そこには仏御前がいた。
驚く祇王に向かって仏御前は言った。「もとは追い出されるところを祇王御前のおとりなしによって呼び戻されたのに、私だけが残されてしまい本当につらいことでした。祇王御前のふすまの筆の跡を見て、なるほどその通り、いつかは我が身だと思い、祇王御前が今姿を変えてこちらにいらっしゃると聞き、ぜひ私もとこちらに参りました」衣を払いのけた仏御前はすでに尼になっていた。「私の罪を許してください。もし許されるなら、一緒に念仏を唱えて極楽浄土の同じ蓮の上に生まれましょう」と、仏御前がさめざめと涙を流したので、祇王は涙をこらえ、「あなたがこれほど思っておられたとは夢にも知りませんでした。さあ一緒に往生を願いましょう」と迎え入れた。それから四人は同じ所に籠って朝夕一心に往生を願い、本望をとげたということであった。
【小督】
小督は建礼門院の女房で宮中随一の美人で琴の名手として高倉帝の寵愛を受けていた。しかし平清盛の娘徳子が帝の中宮となったので、清盛の権勢をはばかって宮中を去り、姿を隠してしまう。高倉帝はそのことを日夜嘆いていたが、小督が嵯峨野のあたりにいるという噂を聞いて、早速捜し出すように勅命を弾正大弼源仲国のもとへ下す。八月十五夜、小督はきっと琴をひくだろうから、その音を便りに捜すことにしようと答えると、帝は馬を渡し、仲国はそれに乗って急いで出かける。やがて法輪寺のあたりで、かすかに琴の音が聞こえてくるので、耳をすますと「想夫恋」の曲。琴の音の「想夫恋」の調べを聞き、これに自分の笛を合せて、小督と邂逅する。侍女のとりなしで対面した仲国は、帝の文を渡し、御返事を請うと小督は院の思召しに感泣する。そして仲国はなごりを惜しむ酒宴に舞を舞い、小督に見送られて都に帰る。その後小督は宮中に連れ戻されたが、清盛のため尼にされ、間もなく嵯峨野で死没する。
【表示絵】
作品名:「彫画共進会之内」 「盛衰記西八条別館之図」「祇女」「祇王」
作者名:周延
所蔵:UPS Marega
画中文字:「萌出るも枯るゝもおなし野辺の草 いつれか秋にあはてはつへき」「清盛は平忠盛が嫡男と雖も実は白河帝の落胤にして官位食禄身に余り一天の柄権を掌握して驕奢暴政天下に震ひ 其頃名高き舞姫祇王祇女が絶世の美貌を惑溺て殿中に留め昼夜鐘愛を究めたり 時に加賀より仏といへる白拍子推参す 折柄酒宴の場なれば召て舞曲を観てあるに立舞ふ姿は宛も天女と☆疑西施飛燕の艶色なれば清盛心恍惚として仏が手を握帳台深く引入給ひ寵遇逾熾なり 満れば欠る栄枯の定理 祇二女は忽寵衰へ嵯峨野の奥へ世を遁れ菩提の道にぞ入たりける 斯く無常有為転変何れか秋の一首さへ身に比放さるゝ仏女が発心 両女が跡を尋はゝ往生院に到着て等しく尼とぞ成にけれ 応需 隅田了古記」女性たちである。
【参考文献】
・近松門左衛門『近松全集第十四巻』浄瑠璃「仏御前扇軍」P.275-399
・祇王 あらすじ 『祇王寺HP』 http://www.giouji.or.jp/about (2017/12/07 12:02)
・小督 あらすじ 『浮世絵百科』
『演劇百科2』P.473
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