飫肥城

飫肥城は長禄2年(1458)島津氏が土持氏を配下におさめ、新納忠続を肥後城に入城させるが、かつて土持氏と同盟関係にあった伊東氏が文明17年(1485)飫肥に侵攻する。その後、島津氏一族が城主となり両者の間で100年以上攻防戦が繰り広げられたが、伊東氏は豊臣秀吉の配下となって九州平定に参陣。その功によって天正15年(1587)肥後城主に返り咲き、島津氏との抗争に終止符が打たれた。さらに関ヶ原の戦いでは東軍につき、徳川氏より所領を安堵された。寛文2年(1662)から数回にわたって発生した大地震で、酒谷川に面するシラス台地上に位置する飫肥城は甚大な被害を受けたが、貞享3年(1686)から8年がかりで大改修を実施。中の丸に本丸機能を移し新本丸とし、長大な石垣、重層の櫓が設けられ近世城郭として体裁が整えられた。明治6年(1873)廃城となった、

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