熊本城
-
-
熊本城のある丘陵地帯は茶臼山と呼ばれ室町時代には千葉城や隈本城が築かれていた地であり、この地を与えられた加藤清正が1591年(天正19)から築城を計画。慶長6年(1601)から本格的に築城を開始し、千葉城・隈本城を縄張りに取り込み、丘陵一帯を取り巻く川の流れを変えこれを内堀とした巨大要塞を慶長12年(1607)完成させた。本丸には大天守・小天守を建て、いくつもの曲輪を巧みに重ね、御裏五階櫓・本丸東三階櫓、小広間西三階櫓、本丸宇土櫓など他の城では天守に匹敵するほどの五階櫓が5基も存在し、各曲輪は多門櫓や門、土塀で囲まれ、それぞれが一つの城として機能した。さらに各曲輪には堅牢な高石垣が巡らされ鉄壁の防御を誇った。加藤氏改易後は細川氏が入り、明治維新を迎えた。明治10年(1877)の西南戦争では西郷軍の攻撃を耐え抜き堅城ぶりを披露した。本丸の大部分が消失したが、宇土櫓を含め11基の櫓が残った。