鳥取城
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鳥取城は16世紀中ごろ標高263mの山名氏により、久松山山頂に山城が築かれたことに始まる。天正9年(1587年)羽柴秀吉が大軍で12kmにもわたる鳥取城包囲網を築き兵糧攻めを行った。この作戦は戦国時代の籠城戦上凄惨を極めた。この事態に吉川経家は降伏を決意し、将兵の助命を条件に自害して開城終息した。その後宮部氏は山頂や山麓に石垣や櫓を配し、関ヶ原後は池田氏が32万石の城主となり山麓の大改修を行なった。山頂に二重天守(1692年落雷により焼失以後再建されず)、山麓には三階櫓が建てられた。家康の血を引く鳥取池田家は幕府から厚遇され、城内の建物屋根に葵の紋瓦を葺くことを許可された唯一の外様大名でもある。幕末まで池田氏が城主として続いた。
鳥取城は、標高約250メートルの久松山の山頂に位置しており、周囲を自然の地形と人工的な堀で囲まれて、強固な防御力を誇っていました。城は三つの主要な郭(くるわ)から成り、最も重要なのは本丸で、ここには天守が建てられていました。また、外郭には二の丸や三の丸があり、これらの郭と堀が敵の侵入を防いでいた。