駿府城

14世紀に駿河守護の今川氏の居館が築かれたのが始まりである。今川氏の領国における中心地として発展し、京都の文化の影響を受けた華やかな街として発展した。永禄11年(1568年)に武田信玄の駿河侵攻により館は炎上し焼失した。武田氏滅亡後は徳川家康が入城し、天正13年(1585年)に近世城郭として縄張を一新し近世城郭として築城が行われた。この際に天守が建造され家康は本拠地を浜松から駿府に移した。家康の関東転封後は中村一氏が領有した。江戸時代になると秀忠に将軍職を譲った家康の隠居所となり、天下普請により大改修が施された。家康の十男である徳川頼宣が藩主として駿府藩が置かれたこともあるが、それ以降は幕府の直轄地として城代が置かれた。

本丸にある天守台は全国でも屈指の大きさであり、7層の天守が建っていた。城の西側には安倍川が流れているが、当初は城下まで流れていたが、流れを変え合流させることで治水や城の防御に活用している。

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