箕輪城

永正9年に上野国(現在の群馬県)の国衆であった長野業尚によって築城された。業尚の子、信業の時代に守護代である長尾氏を凌駕する勢力を持った。信業の子である業正は関東管領である上杉憲政に仕えた。しかし、1558年(永禄元年)上杉憲政は北条氏に追い落とされ越後へ逃亡した。その後も業正は箕輪城に留まり、周辺の武士をまとめて箕輪衆を形成し、上杉謙信を後ろ盾とすることで侵攻してくる武田氏や北条氏と戦った。特に武田信玄は度々、箕輪城へ侵攻するも業正の前に6回の侵攻はすべて防がれた。信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野には手が出せない」と言ったという。1561年(永禄4年)に業正が没すると子である業盛が跡を継ぐ。業盛も父と同様に武田信玄の侵攻に対して善戦し、1度は撃退するも周囲の城を落とされ孤立する。永禄9年(1566年)の戦いでは10倍以上の兵力差がある武田軍に対して善戦するも、敗北し自刃した。武田氏は箕輪城を上野支配の拠点とし、内藤昌豊を城代として置いた。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると織田家家臣の滝川一益が入城する。しかし、同年に本能寺の変が起こると北条氏が上野国侵攻し、城主となった。豊臣秀吉の小田原征伐の後、徳川家康が関東に入封すると箕輪城は家臣である井伊直正に12万石で与えられた。直正によって近代城郭へ改修されたが、慶長3年(1598年)に高崎城に移ったことで箕輪城は廃城となった。

河岸段丘の上に築かれた平山城で東西約500m,南北約1100mという広大な城であり、本丸を中心に多数の曲輪が配されている。二の丸の南側には井伊直正が建てたとされる郭馬出西虎口門があり、復元されている。本丸の西側には大堀切があり調査の結果、幅約30m、深さ約20mという壮大な規模であることが分かった。大堀切や三の丸の一部には石垣が使われており、北条氏時代の遺構であると考えられる。

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