水戸城

平安時代に馬場氏が居館を築いたことが始まりである。その後、上杉禅秀の乱で馬場氏を破った江戸氏が城主となり二の丸が築かれ居城とされていく。江戸氏は独立性を維持し、度々主家である佐竹氏と対立した。豊臣秀吉の小田原征伐に際して江戸氏は北条氏側に属したため秀吉側に属した佐竹氏に攻められ、水戸城は落城した。佐竹氏は水戸城に居城を移したため、大規模な改修が行われ現在の縄張りが整備された。関ヶ原の戦いの後、佐竹氏は秋田へ移封となり徳川家康の5男である武田信吉が15万石で入封したが、後継ぎがなく没したため10男である徳川頼宣が藩主となった。1609年(慶長14年)に徳川頼宣は駿府に移封となり、11男の徳川頼房が25万石で入封し御三家の水戸徳川家として幕末まで続いていく。幕末には藩内で改革派と保守派が対立がおき、改革派の天狗党が挙兵し天狗党の乱が起こった。この乱により城下で戦闘が行われ、城内の建物も多く焼失した。

天守は幕府に配慮し造られず、代わりとして3重5階の御三階櫓が置かれた。御三家の居城であるが、水戸藩は藩主が参勤交代を行わない江戸定府大名であったため居城として使われることが少なく質素な作りとなっており、石垣も使われていない。また、櫓や長屋なども極端に少ないことは水戸徳川家の家風もあると思われる。三の丸には藩校である弘道館(重要文化財)が置かれ現存している。大手門や二の丸角櫓が木造復元された。

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