久保田城
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久保田城は1604年に関ヶ原の戦いでの敗戦によって転封となった佐竹義宣によって築城された。標高40mの神明山に築かれた平山城であり、久保田藩の居城となる。近世に築かれた城としては珍しく石垣をほとんど使わず堀と土塁が巡らされている。江戸時代には幾度となく火災に見舞われその都度再建されていたが、1880年の火災で焼失して以降は再建されることはなかった。現在では御隅櫓と本丸表門が復元されている。
石垣が使われなかった理由としては佐竹氏の旧領である常陸国(茨城県)などの東国では石垣を使わないことが多かったという点と関ヶ原の戦いでの敗戦から幕府に遠慮したという点が挙げられる。また、天守閣がない理由としても幕府への遠慮からだと思われる。本丸には本丸御殿が置かれ藩主の居住スペースとなる。南西にある高台には「御出書院」(おだししょいん)と呼ばれる櫓座敷を建てて天守閣の代わりとなりその他にも8基の櫓が立ち並んでいた。二の丸には勘定所・境目方役所・祈祷所安楽院・時鐘・金蔵・厩などの藩の役所が置かれ外部からの出入りはすべて二の丸に集まるようになっていた。三の丸には一門や重臣の屋敷が置かれた。城下には城に近い場所に家臣が住む内町、旭川を挟んだ城の西側に町人が住む外町が置かれた。内町は防衛のために屈曲や食い違いの多い道路が作られているが、外町では交通の便を重視して碁盤の目状の町割りがされている。