盛岡城
盛岡城は、三戸から不来方(こずかた)の地に居城の移転を決定した南部信直(なんぶのぶなお)が、慶長2(1597)年に嫡子利直(としなお)を総奉行として築城した。縄張は北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵上に本丸・二ノ丸・三ノ丸・淡路丸(あわじまる)など曲輪を配された。築城工事は北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後に完成した。それ以降は盛岡藩の居城として明治時代まで続いた。 本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、存城当時は廊下橋が架けられていた。丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされた。城の全面に花崗岩で組まれた石垣が使われており、土塁が多い東北地方では異彩を放っている。

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