『夏祭浪花鑑』<なつまつりなにわかがみ>

 『夏祭浪花鑑』は、延享2年(1745)に人形浄瑠璃の演目として成立した。同年中には歌舞伎へ移植され、夏狂言の代表格として今日まで上演を重ねている。人形浄瑠璃『夏祭浪花鑑』は、歌舞伎で上演されてきた団七物の影響を受けており、歌舞伎が育んだ演目といっても過言ではない。
 遊女琴浦に溺れて勘当された玉島磯之丞は、磯之丞の父に恩がある団七九郎兵衛の世話になり、団七の親友釣船三婦<つりぶねのさぶ>宅に匿われる。町が天神祭で賑わう中、団七の舅義平次は金のために琴浦を奪うが、団七に阻まれ、もみ合ううちに団七は義平次を殺してしまう(長町裏の場)。団七の義兄弟の一寸徳兵衛<いっすんとくべえ>は、団七の罪を軽くするために団七の女房お梶を口説いて団七と斬り合いになり、三婦がそれを仲裁する(団七住居の場)。一度は捕手を逃れるが、団七は自ら縄目にかかる。
 本演目の一番の見所は、本泥を用いたリアルな演出で行われる長町裏の場である。絵尽や絵本番付(展示№30・31)では、祭りの賑わいを遠景の幟で表現して殺し場と対比させ、凄惨さを際立たせている。団七が義平次を殺害した後、振り返って見得をするのは上方で創始された型であり(展示№30)、文政期(1818~1830)に至って江戸に持ち込まれたといわれている(展示№31)。展示№3334は、義平次の死骸を泥場に落とした後、団七が本水で刀を洗う場面を描いたもの。江戸・上方とも、古くは刀を洗うだけだったが(展示品No.33)、上方では頭から水をかぶる型が嘉永(1848~1854)頃から見られるようになる(展示品No.34)。侠客らしさを際立たせた展示№34の団七の刺青は、現代の団七の扮装に通じるものである。団七の扮装に刺青を取り入れたのは文政6年(1823)に大坂で団七を演じた三代目中村歌右衛門が最初であるが、江戸では天保2年(1831)に四代目歌右衛門によって持ち込まれた後に定着した。
 団七住居の場の見所は、団七・徳兵衛の太刀を三婦が屏風で制する際の絵画美を意識した見得である。この仲裁の見得は本演目の演出として定着したが、同様の筋立てを持つ他の演目や、本演目の書き替え狂言にも見られるものである(展示№36)。展示№35は仲裁の後に三婦が団七を諭す場面。画面上部のセリフと共に舞台の様子を楽しむことができる。

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